霊的ダメージ

とうとう今年も残りわずかになってきました。

この記事が今年最後になりそうであります。

ワタクシにとっては、とてもたくさんの人と出会った一年だったように思われます。

そしてまた、過去のものになっていく人間関係も。

あなたが変われば、関わる人達も入れ替わっていく。

どこかで読んだような、聞いたことがあるような話であります。

確かにそうなんでしょう。

薄れていく関係に寂しさを感じつつ、加えて過去の自分のあり方に痛々しさを感じつつ、新たな展開に期待だけを込めるワタクシであります。

現時点のことに没頭していると、新しいことは勝手にやってくるようであります。

先日、ある患者さんに引っ付いている「おばけ」のようなものに対処しようとしていたところ、ワタクシの通常の手法では「取り除く」とか「解決する」ことができないとわかりました。

そこで何か、ほかのツールを加えれば解決可能なのかと「あっちの人」に聞くと、「YES」の反応でしたので、「ほかのツール」とは何かを調べたところ、天然石を入れている缶の底にあった

「ソマチッド」

だと分かりました。

もう10年くらい前に、電磁波対策に有効ということで買って治療機器に貼り付けていて、今は機器を使わないのと、もっと効果の高いグッズを作成したので用なしとなっていた代物であります。

ソマチッドは人体にも住んでいる「古代生物」だそうで、言ってみれば平和的に寄生しているのだそう。

面白いのは、人が死に近づくと、

「この宿はもう危険」

ということで逃げ出していって、どんどん体内にいる数が減っていくと言われていること。

そんな古代生物が「おばけ」駆除に効果がある。

その理由を調べてみると、「おばけ」がくっつきやすい人はみんな、体内のソマチッドの数が少なかったのであります。

一年以上の間、定期的にケアさせてもらっている患者さんでもソマチッドが少ないケースが結構ある。

つまり、何かの意味で、体が治っていない。

一年以上も、であります。

なんてことでありましょうか。

何かを分かっっているような顔して全然分かっていない。

ヒドイ施術者であります。

一体どこが治っていないのか。

かなり調べていて、やっと分かったこと。

ソマチッドが少ない人は

「霊的エネルギーが減っている」。

減っているから「おばけ」がくっつきやすい。

とても分かりやすい理屈であります。

肉体のエネルギーとか、心理的なエネルギーと同じように、

「霊的なエネルギー」も減ってしまうことがあると分かったのであります。

さて、減ってしまっている人にはどんな問題がおきているのか。

今の時点で分かっているのは3種類の問題。

1つは、おばけよりもっと「ヤバイ奴」がいること。

おばけは大した力がないので、少してこずったとしてもさほど苦労なく追い払える。

けれど「ヤバい奴」に対しては、特殊な図面や石、オイル、神様、真言など、かなり面倒。

おまけに患者さんから取ったあと、ワタクシに一旦くっつくので、正直言ってやりたくない操作。

こういう操作は、施術者がもし気が付かずに続けていると、どんどんくっつく数が増えて、おそらく病気になるかキチガイになる。

とにかく要注意。

もう1つは「念」。

生霊とも言われる、生きている人からの攻撃的思念。

そして、誰かに対して向けた強い思念が自分自身にも与えてしまっているダメージ。

リアルタイムで思念が働いている場合は解決法がないけど、昔のものなら解消できる。

これもいくつかのツールが必要だし、対処するとき一番気持ち悪い。

おまけにこれも、ワタクシに矛先が。

無関係なワタクシに、なぜ?

最後は、通常の霊的ダメージ。

内容は、心理面へのダメージのうち、言葉にできないような深い意識まで浸透してくるエネルギー的打撃。

これはこっちにくっついてこないから安心。

これら問題を一掃できれば、2つの効果が見込まれる。

まず、精神面のつらさ、不安や心配などを大きく減少させること。

もう一つは、その人の本来の力を発揮しやすくすること。

もちろんおばけも憑きにくくなる。

実のところ、ワタクシもかつてそんなケアを受けたことで、能力を伸ばせるようになった者なのであります。

でありますから、霊的領域へのケアにはすごく価値を感じます。

くっついてくるものは面倒ですが、頑張っていく思いであります。

こういうケアをやっていると、いわゆる

「霊的障害」

にもかなり詳しくなってきているのであります。

この障害で苦しんでいる人の霊的エネルギーは、ヒジョーに少なくなっている。

その理由は、霊的ではない領域にも、問題が生じていることのよう。

物事への認識が歪んでいたり、人として必要な「何か」を得られない境遇で生きてきていること、など。

今後はこの方面での仕事も増えていくと予測しているのでありますが、思った以上に手ごわい障害であります。

信頼できる霊的感覚者との連携が必須であります。

ということで、さんざん調べてきた肉体の「しくみ」に関してはおおむね解明できたようで、主な探求項目からは外れました。

来年初めには心理領域についての講義も待っていますし、今後は「心理・霊」に注目してくことになります。

まだまだ探求して楽しめる。

大変ありがたい施術者人生であります。

ということでみなさま、今年も大変にお世話になりました。

来年もきっと、「画期的発見」という言葉を何度もワタクシから聞かされる羽目になると思われますが、お嫌でないならご来院ください。

みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿、ワタクシがおかしな方向に進まないよう、お導きください。

今後もよろしくお願いいたします。

「理解」を超える

先日、ワタクシの同志とトラブりまして、あやうく大切な人間関係を失うところでございました。

いやー、あぶないあぶない。

ワタクシの特に何の意図もないやり取りが、相手の不愉快を生じさせて、その相手の言葉がワタクシの中にある「地雷」を炸裂させるという展開。

言ってみれば出遭いがしらの「事故」のようなものであります。

こんな風にして失う関係も世の中にはあるのかな、と想像させられました。

同志? そう、同志でありますよ。

その人との関係を表現する適切な語彙がなにか、書く時に調べてみたのであります。

友人とか知り合いとか・・、結構見つけ出すのに時間がかかりました。

なぜなら同志ってあんた。

あまり使わない言葉であります、共産国なら使うだろうけど。

調べてみると、他にも同志はいるようでありますが、ごく「少数」。

今後のワタクシの活動に無くてはならない存在ということのようであります。

「この人とはどんな関係?」かをピッタリした言葉を探すことで把握することができる。

例えば普通の患者さんなら

「患者さん」

になるけど、場合によっては

「友達」

となることもまれにある。

気功教室の参加者でも、普通なら

「生徒」

だけど、

「友」

となったりする。

友達と友は少し関係性が違うらしい。

対等の関係の場合は、相手側から見ても同じ言葉がピッタリになる。

ワタクシの

「代わりがいない人」

も、そうなってるはずなんだけど、現実には今のところなっていない。

なんでだろ?

さて今日は、余談の続きみたいな内容でありますが

「感覚が使えなくなった」話。

ワタクシが使っているような検査スキルは、例えば「あっちの人」にチャネリング的に聞いてみる場合でも、肉体面のエネルギー状態などによって使えない場合がままある。

例えば朝起きた瞬間には使えないことが多い。

疲れてくると、集中を高めないと間違えやすい。

あと、ワタクシと関係性の大きい相手がこっちに意識を向けだすと、急に使えなくなる。

これは結構、困る。

こういうのは、当然他の人にも起きている。

以前気功教室の参加者の足にエネルギーが通っていないということで、特殊なジェルでケアをして通うようにしてみた。

すると通っていない状態がその人にとっての「普通」になっていたので、丹田に気を集めるという基本的な気の操作ができなくなった。

スキルというのは、安定した状態を前提に形成される。

だから、エネルギーの流れるバランスが変わるだけで、いつもやっていることでも一時的にできなくなるようであります。

さてワタクシは、自分の体から新たに見つけ出した「問題」を、連休前の夜に調整しました。

その問題は、ワタクシの体全体への影響力を強く持っているらしかったので、しばらくの間「感覚」がつかえなくなるかもしれない、との観測から、調整できるタイミングを待っていたのであります。

調整後。

見事なくらい何も分からない。

検査も当然できない。

もし誰かに施術しろといわれても、たぶん普通のマッサージくらいしかできない。

マッサージする部位の選定も、たぶんうまくできない。

なんと一日以上感覚がストップ。

その状態で過ごしていると、ワタクシが日常にどれだけたくさんの事を調べているのかよくわかった。

道を歩いているときでさえ何かの検査をしているのであります。

例えば

「今日くるあの人の調子はどうかなー」

とか、

「今日の教室ではどんな話をするべきかなー」

とかを調べたりしている。

調べるべきことは、すごくたくさんある。

おそらく普通の人からみれば、狂人。

完全に異常。

でもそれがワタクシの日常。

その日常が、昔何もわからなかったワタクシの日常に逆戻りした。

なんか奇妙。

あ、そうだった、今は分からないんだった、の連続。

半日くらいして徐々に慣れてくると、その方が平和な気がする。

なんだか「するべき事」が何もなくなったような感じ。

そして、昔と決定的に違っている自分に気が付いたのであります。

それは

「ほとんど何も考えていない」

ということであります。

おそらく昔のワタクシなら、色々な事についてあれこれと考えていたように記憶している。

でも今は

「やるべきこと」

を抜きにすると、何もなくなってしまったかのよう。

自分がいて、単に時間が過ぎているような感じ。

なかなか、いい。

おそらく、「無」の意識状態の訓練がすすんだので、雑念が出てきにくくなっているのであります。

そんな時にふと思い浮かんだ人がいる。

その人の雰囲気は、これまでに会ったどんな人とも違うようだった。

ワタクシ的には「自由」を体現した人のように見える。

本当の「自由」の味を知っている人は、たぶん世の中にはほとんどいない。

もちろんそれは

「自分自身からの自由」

であります。

うまく言い表せないけど、すごく魅力的。

ワタクシもそうでありますが、多くの人は何かにがんじがらめになって生きている。

その人をみると、そうでないのがよくわかる。

今まで会った人の中にも、「内なる静寂」を感じる人が何人かいた。

一見して

「中性的」

みたいなのを感じる。

そんな生き方に少しはワタクシも近づいているかもしれない。

でもそれは「自由」からはまだ遠い。

それは普通の人より、感情や思考が減っているだけ、かもしれない。

「自由」な人からは、もっと違った雰囲気が伝わってくる。

それは、「楽しそう」。

そしてそのエネルギーは、単に座っている時にも全開になっているようだ。

楽しく話している時だけ、ではないのであります。

それは驚異的。

そこには、ワタクシが知らない「何か」がある。

でもなんとなく、意識のどこかで、それがワタクシにも分かりかけている。

それはまだふわふわした感じで、はっきりしない、言語化できない。

「自由」な人に聞いた。

「それを理解できていないのです」

すると

「それは理解するようなものではありません」

だって。

なんか素敵。

ワクワクする。

「それです、あなたの探しているものは」

と、人ではない「だれか」がささやいたような気がした。

ワタクシの今後の旅は、そっちに向かっていくようであります。

楽しい毎日に、感謝。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!

創造性

しばしば患者さんから聞く、困っていることの一つは

「夜に眠れないこと」

であります。

たしかに夜には眠った方が医学的にもいい。

でも、

「~して当たり前」

という思い込みで苦しんでいるだけ、という人もいるかもしれない。

別に夜に眠れなくてもいいでしょ、というのがワタクシの考え。

このブログも、だいたい夜の12時過ぎから書き始めることが普通。

昔ライターだったころに、なぜか夜のほうが記事をかけたので、その習慣の名残もあるかもしれない。

次の日が休みともなると、ワタクシは夜中にがぜん「ウキウキ」してくる。

まだまだ起きていても、次の日に支障がないんだ、のウキウキ感。

ブログ書くのも結構好き。

書く内容さえあれば。

そう、記事を書くには「書きたい」と思えるネタが必要。

ワタクシの場合は「感情の動き」なくして記事は成立しない。

もしなければ、どうでもいい記事ができあがってしまう。

それに、悪い感情の動きは記事にしないことにしている。

もうみんな、悪い方向の情報はお腹一杯だからであります。

でも、良い感情の動きは限られる。

感激することはなかなかない。

なかなかない感激はそれゆえに、記事にならざるをえない。

だから昨今タオイストジャパンネタが多い、ということなのであります。

そういえば、タオイストジャパンのワークショップ等に5回参加して、だんだん理解してきたことがある。

参加するたびに何かの意味で泣いているワタクシなのでありますが、泣くと何かがゆるむ、もしくは自然な状態になる。

でも、時間がたつとまた元に戻ろうとする。

で、またゆるめる。

これを繰り返していると、もう前みたいには元に戻ってなにかが硬くなることがなくなってきている。

そう、長年の習慣は、体のものでも精神のものでもすぐにはリセットできないのであります。

本来の状態を「これがあたりまえ」と認識できるようになるまでに反復が必要。

でも効率よくそれを成し遂げる。

そういう意味合いを持つのがそこのセミナーであります。

と、余談がいつのまにか本題に?

話が元にもどりますが、会社勤めの人には夜更かしはおススメできないけど、年配の人なんかで昼寝もできる場合は、夜寝ることにこだわらなくてもよし、という話。

夜はやることがないんです、はまた別の問題。

さて、前回の投稿で予告した内容。

まず「OSHOカード」

伏せてあるカードを一枚引いて、そのカードの意味するところを教えてもらう。

ワタクシの場合

「CREATIVITY]

つまり創造性。

以前にある能力者に他の方法で見てもらったときにも創造性だった。

自分でいうのもなんだけど、創造性は旺盛と思われる。

ただあっちの人の言うとおりにしてるだけ、との意見もあるけど。

だけれども先生は、この言葉の背後にある

「破壊性」

について語られた。

ワタクシに対してだから、その一面を語られたのだと感じる。

確かにそうであります。

ワタクシは例えば旧態依然としたものは大嫌いなのであります。

「今までそうやってきたから」

あるいは

「みんながそうするから・・・」

もうそれは、最悪。

あぁ、こんなところでも前回書いた人間の酷さがでている、と感じる。

深いところから湧いてくる凶暴性。

そしてそれは、自分へのネガティブな認識からやってきている。

まだ攻略はできてはいないようであります。

さて

https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/what-is-creativity

このサイトにあるOSHOの言葉は、また違った角度から[CREATIVITY]について語っている。

抜粋させてもらうと

「創造性を特定のものに限定してはいけない。創造的なのは人間であって、ある人が創造的なら、彼がなにをしようと、ただ歩いているだけでも、彼の歩みのなかに創造性を見ることができる。彼が静かに坐って、なにもしていなくても、そのなにもしないことが創造的な行為になる。菩提樹の下でなにもせずに坐っている仏陀は、世界がかつて知ったもっとも偉大な創造者だった。

 それさえ理解すれば、創造的だったり非創造的だったりするのはあなた、人間だということを理解すれば、この問題は解決する。

 だれでも画家になれるわけではないし、その必要はない。だれもが画家になったら、世界はとても醜いものになる。生きていくのが難しくなる。そしてだれでもダンサーになれるわけではないし、その必要はない。しかし、だれでも創造的になることができる。

 なにをするにしても、それを歓びに満ちてするなら、それを愛情深くするなら、その行為が純然たる経済活動でないなら、それは創造的だ。自分のなかにそれから成長したものをもっているなら、それが自分に成長をもたらしたなら、それはスピリチュアルなもの、創造的なもの、神聖なものだ。

 あなたは創造的になればなるほど神のようなる。世界中のすべての宗教が、神は創造主だと言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っているのは、創造的になればなるほど、あなたは神々しくなるということだ。あなたの創造性がクライマックスに達すると、あなたの全生命が創造的になると、あなたは神々しさのなかに生きている。だから神は創造主にちがいない。というのも、創造的に生きてきた人たちは神にきわめて近くなるからだ。」

どうですか、きちゃったでしょ? ズン、みたいなの。

このような言葉の後、もはや書くに足る言葉は皆無。

ということで、今回の記事はこれでおしまいにしてしまうのであります。

今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!

No1ネガティブ

今回は予告どおり、今月行った瞑想のセミナーについての投稿。

前回の記事の最後あたりに書いた

「新しい展開」

というのも実は、このセミナーでの副産物。

一つの体験が波となって、「わたし」という存在の全領域に変化を引き起こしたようであります。

このセミナーの特性は

「OSHO」

という指導者の教えに従った内容、ということになるのかもしれない。

でもワタクシは、そこには今のところ興味がなくて、純粋に瞑想とそれに関するワークに取り組んできたということであります。

ただ、参加者の何割かを占めていた、「サニヤシン」と称するOSHO氏の考えに賛同する人たちが興味深いというのも否定できないところ。

そしてタオイストジャパンと今後も関わる中で、知らないうちにOSHO氏の思想がワタクシの中にも根付いていくかもしれない。

ワタクシは会ったこともない「ラマナ・マハルシ」の教えによって、ここまで進んできた者であります。

会ってはいなくても、それは「縁」というものなのかもしれない。

マハルシ氏の、あまりにも明確な教えと比較すると、OSHO氏の教えは核心を理解するのに少し時間がかかりそうな印象。

両者の教えの核心に違いがあるのかどうか。

それについては、今後書くこともあるかもしれない。

さて今回のセミナーでとても深い体験ができたワークは

「2人一組になって、自分自身へのネガティブな認識・評価をすべて相手に話す」

というものであります。

考えてみれば、自分に対して持っているネガティブな思いを誰かが打ち明けて聞かせてくれたことはあまりない。

なぜってそれは、少し考えればわかる。

誰だって、自分の一番痛い所の話はしたくないのであります。

でもあえて、それをやる。

最初にワタクシが話すことに。

ワタクシのネガティブでまず最初に思い浮かんだのは

「外見が受け入れられない」

であります。

25年以上今のような外見で生きているワタクシでありますが、未だに慣れることがない。

というか、受け入れ不可能。

そこには説明は不要であります。

次にでてきたのは

「やさしくない」

であります。

おそらくワタクシよりもっと優しくない人間は少なくないと客観的には思う。

でも、自分自身への評価は誰かとの相対評価じゃない。

自分の発する言葉の中に、「やさしさが足りない」を感じることが結構あるのであります。

「やさしさ」は人にとって、一番大切な要素だとワタクシは考える。

でもそこが足りていないのであります。

変えようと思っても、なかかな変えられないのが人間でありますね。

その次は

「賢くない」

ワタクシは賢さにヒジョーに興味をもつ人間であります。

そういう意味で、しょうもない奴であります。

昔自分が賢いと思っていたのに、絶対に負けないと思っていた学友にも受験で負けたのであります。

そのショックは未だに続いているようであります。

ホンマにしょうもない。

ということで、他にもいろいろとネガティブな評価はでてきたのであります。

しかしワタクシの場合、思ったよりはネガティブは出てきませんでした。

ワタクシの頭は、普段あまりネガティブな方向には意識が行かない性質なのであります。

そして、相手の番になりました。

ワタクシは自分のことを話し終えたので、やれやれの気分でした。

でも。

相手の人が話を進めるうち、その内容に

「なんて可哀そうなんだろう」

と心底思いました。

そしてその内容から考えて、その人のネガティブはワタクシのような性質の人間が作り出しているとしか思えませんでした。

そう思うと、涙が止まらなくなりました。

このワークは知らない人同士でやるのが前提のようですが、ワタクシの相手の人は以前にも会ったことがある人でした。

その人が、自分のことをそんな風にネガティブに考えているとは思いもよりませんでした。

目の前の人が心の中に傷を負って生きている。

それを本当にリアルに感じたのは初めての経験だったような気がします。

他の人からの攻撃よりも、自分自身への攻撃が一番抗いがたいものなのであります。

このワークの後、張りつめていた自分の中の何かが、消え去ったように感じます。

お互いが、相手に弱みを見せずに、平気そうな顔をして生きる世界。

それが今の日本のような気がしてきました。

なんてしょうもなくて、表面的で、おろかな社会なんでありましょう。

そしてその社会の、確固たる構成員のワタクシ。

いえむしろ。

ワタクシこそがバリバリの構成員なのであります。

でも、それは幻の世界だとはっきり認識しました。

それがとてつもないインパクトでもって「解った」ことであります。

このワークで、すぐに感じ取ったのはそんな印象でした。

そのあとワタクシは、新幹線の中で考え始めていました。

自分が挙げたネガティブのうち、一番強いネガティブはどれだったのか、について。

そんなのは、実際には考えてわかるようなものではないので、

「あっちの人」

に聞いてみたのであります。

すると、挙げた中には一番がないことが分かりました。

じゃあ何が一番なのか。

ネガティブな自分への評価や決めつけは、何かの拍子に

「ネガティブな感情」

を呼び起こす、と考えられる。

そこで、自分が強い「不快感」を感じる場面から探っていくことにする。

ワタクシは、予約をころころ変える患者さんは嫌い。

何度も予約を変更されると、すごく憂鬱になる。

それがなぜか、自分でも分かっていなかったのであります。

普通の人なら特に問題視するような状況じゃない。

でも自分にとっては問題になる。

何かが、悪い気分を呼び起こしている。

この答えにたどり着くまでには、1時間以上かかったような気がする。

「あっちの人」に聞きながらの1時間だから、かなりいろいろな事を調べてやっと導き出したこと。

それは

「自分は必要とされていない」

だったのであります。

この潜在的なネガティブがあるから、そこにひっかかる事象は耐え難い。

これがワタクシのNo1ネガティブでありました。

ころころ予約を変える=軽く扱われる=必要とされていない

の図式。

ここにたどり着いたとき、なんだかもう、胸の真ん中を杭で貫かれたような

「そう、かぁ。。」

としばらく身動きできない感覚。

そういえば、その思いが刻み込まれた事件があった。

「自分は重要な役割を担っている」

と思っていた中学の部活動での出来事。

自分の行動のせいで、部が崩壊しかけたのであります。

その時にNo1ネガティブはしっかりと、刻み込まれてしまったようであります。

さらには、高校の部活でもこのネガティブを強化してしまう状況があったような。。

このNo1が自分にとっていかに大きな影響を与えてきたのかは、試しに

「No1ポジティブ」

を調べてみたときにはっきりしました。

それは

「自分のスキルは必要とされている」

だったのであります。

自分という存在が必要とされていないなら、スキルで必要とされるしかない

という思いの中で、これまでスキルを磨いてきたということであります。

自分のことながら、正直言ってすごく滑稽です。

そんな目的のために取り組んできたのが自分の人生なのか。

そしてそれだけじゃない。

スキルを重んじることはつまり、能力主義ということなんであります。

能力のない奴は価値なし、であります。

その認識がやさしさの欠如にもつながっている。

それがワタクシという人間でありました。

考えれば考えるほど、無駄なことに時間を費やしてきたように思える。

でも、悪いことばかりでもない、と思い直す。

このネガティブのおかげで、本来ならできない努力もしてこれたかもしれない。

No1ネガティブへの理解は、生き方を変える力を持っているように思う。

たぶんワタクシの生き方は、変わっていくのでありましょう。

それで、気功教室のみんなにも、No1ネガティブを探してもらった。

ワタクシの便利な検査で、言葉にしなくても、心の中に思い描いている事柄がどのくらいのネガティブなのか分かるのであります。

やはり、No1ネガティブが自分で分かっている人は少ないようであります。

どんな人にとっても、No1ネガティブを探すことには大きな価値があるでしょう。

ネガティブの正体が分かればそれだけで、その影響力はすごい速さで小さくなってしまうようであります。

教室では、お互いに自分のネガティブを言い合うワークはしませんでした。

「自分を変えたい」という思いが強くなっている人が取り組めるワーク。

他人に自分のネガティブは明かしたくない、という人には向かないでしょう。

でもネガティブは幻のようなものです。

誰かに言ってしまったら楽になります。

そんな機会がみなさんに訪れるよう願っています。

セミナーでは、もちろん瞑想もやりました。

でも特別なものではありませんでした。

あと、「OSHOカード」というものを1人1枚選んで、その意味を先生に聞きました。

そのあたりのことや、記事の出だしで書いた

「新しい展開」

については、次回にでも。

気が変わらなければ。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

形がないものを相手に

とうとう夏が終わりかけてきたような今日このごろ。

確認してみると、なんと1か月も記事を投稿していませんでした。

もちろん最近も色々なことが起きてきています。

ただその内容がなんとなく記事にしにくいし、多くの人にとっておそらく「つまんない」。

加えてあまりにも妄想的。

その理由。

それは、目に見えないもの、あるのかないのか分からないものに対して、「ある」という事を前提に、調べて評価する作業だからであります。

例えば肉体が元気かどうかを調べようとする場合。

ワタクシの場合ならとりあえず、頭の中の水(髄液)が上手く流れているのかどうかを観てみる。

なかなか役に立つ検査でありますし、実際に存在して流れているものだから、そこに疑問は生じにくい。

「本当に分かっているのか?」

くらいの常識的な不安はあるとしても、感覚がかなり明確なので「良し」とする。

だけれども、通常の手法で歯が立たない患者さんを「どうにかして」改善したいという状況になると、これまでに調べたことのないような、新たな「判断材料」を探し始める。

するととたんに「いたしかたなし」な検査対象と評価、一歩間違えれば「妄想」となる。

それでも

ワタクシの頭の中で。

そして、霊的な領域へのアプローチの中で。

妄想は症状の改善という形で

「ただの妄想ではない」

と主張するのであります。

その概要。

ある人の全部の領域を含んだエネルギーの球を想像する。

それは生命をイメージ化したもの。

通常はエネルギーそのものなので、その量を数値化できる。

これまでも「生命力」というのを数値化して利用してきたのでありますが、これまでよりも、「肉体のエネルギー以外のエネルギー」に重きを置いている。

そしてそのエネルギーが肉体内に湧き出す泉。

この泉に不調がなければ、エネルギーの量に見合った度合いで
体内にエネルギーが湧き出している。

エネルギーの量を数値化できて、泉からも適切な湧き出しがあるなら、言ってみれば簡単な症状であります。

適切に肉体面への整体を施せばスムーズに回復。

交通事故での深刻なダメージなどでも意外に順調に改善できるようであります。

でもエネルギーが数値化できない場合。

精神面あるいは霊的領域へのアプローチなしでは解決にはまず至らない。

その場で症状が軽くなるなどの効果が出ても、本質的な改善は得られないのであります。

もちろん精神面あるいは霊的領域にどの程度のトラブルが起きているかによって体の反応はかなり違ってくる。

深刻な場合、日常生活に大きな支障が出ているか、ほとんど活動できない状態になってしまうようでありまして、そのような状態に苦しむ人はすごくたくさんおられるようであります。

とても驚いたのは、うちの患者さんでスムーズに解決していかないほとんど全員がエネルギーの全体量を数値化できなかったこと。

そしてその半数が、霊的な存在の介入によって回復を邪魔されているということであります。

そんなにも霊的な問題がありふれていたとは信じがたい。

でもそれが正しいようであります。

人が霊的な問題で不調になることは、当然あると思っていました。

同時に、霊的に問題をとらえる人は常に霊的に考える、とも思っている。

だから実際にはそんなケースはとても少ないのでは、と。

この話はもちろん、症状を相手に仕事をしているあらゆるタイプの施術者、セラピスト、医療人にも当てはまる。

例えば骨盤の歪みを診て判断する人は常に歪みとか骨格しかみていない。

全部の症状は骨格に原因がある、という。

鍼灸師は臓器やエネルギーの問題という。

リンパマッサージの人はリンパの停滞という。

筋肉へのアプローチの人は筋肉が硬いからという。

でもどれも、言っていることが正しい場合はありますね。

その割合はたぶん、低いけど。

それと比較すると、ある程度の難しい症状を抱えた患者さんの場合において、霊的な問題が原因という割合はずっと高い、かもしれない。

じゃあ霊能者にみてもらえばとは、特定の能力者をのぞくとワタクシはあまり思わない。

なぜなら。

霊的な問題がほとんどの場合、精神面の問題と関わっていると感じるからであります。

でありますから、精神面と霊的な問題の両方を解決していく必要あり。

もちろん「言うは易し」。

でもうまくできれば、エネルギーが数値化できるようになる。

たいていの場合、元気な人よりかなり低い数値。

数値が上がるまでに、しばらくの期間がかかりそう。

でも回復していく準備は完了。

あと、泉。

これがまた不思議な機能。

肉体面への湧き出し口だから、当然骨格や中枢神経の状態にも左右される。

でも一度完全に閉じると、いくら肉体面をケアしても働き出さない。

言ってみれば、エネルギーでできている「吹き出し口」を直接エネルギー的に
ケアしないと元に戻らない。

この泉の場所は5箇所だけど、エネルギーにはかなり敏感なワタクシでも、きっちりした位置を探し出すのには少し苦労する。

でもって、意識をかなり深くまで沈めて、ワタクシの扱える上限に近い繊細なエネルギーでケアすれば完了。

ようやくそこから、肉体面へのアプローチ。

上記の操作をした患者さんの場合、肉体面へのケアはさほどでてこない。

それはおそらく、上記操作で十分にインパクトがあるので、患者さんの体がそれ以上を要求してこないからであります。

と、ここまでが

「妄想」

のような話。

でも記事投稿後数日で、違う展開が16日に起きた。

だから書き換えている。

確かに霊的領域へのアプローチは効果がある。

でも、他の手法でもその領域に働きかけることができる、かも。

もしそうなら、神様仏様の出番は激減してしまうかも。

おぉ、急に元気がでてきた。

意味不明より、意味明確のほうがやっぱりワタクシはよいのであります。

さて次回は、先日行った瞑想のセミナーで得たものについて
書こうかなと思います。

記憶が新しいうちに書くつもり。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

足掻く者

先日、半年に一度の「気功教室の飲み会」をしました。

一緒に話す人数が多くなれば、二人で話していても出てこない人柄の一面がはっきりとでてきたりする、と感じます。

そんなときにも、どんな風に振舞うのか、「いつものやり方」というのがありますね。

「いつもの」とはつまり、慣れたやり方、無難な振舞であります。

もちろんそれでいいでしょう。

でも、自分自身を「変える」のを目的とするなら、やったことのない振舞いをしてみるべきでは、と思います。

でありますから今回は、

1 あまり話をしない人にはもっと話すように
2 話をしすぎる人には話を控えるように
3 どちらでもない人にはあまり話をしない人に話を振るように

言ってから会をスタート。

誰が1~3のどこに属するのかも調べたので、みんなに伝えておきました。

考えてみれば酷い飲み会であります。

単なる実験?

それでも結構うまくいったのでしょうか、3時間経ってもだれも帰りたそうな素振りなし。

ワタクシ自身は話をしない人が気になる性分で、特に教室の飲み会だと自分がしゃべりすぎなので2の分類ですが、酔ってきたら結局しゃべってしまったので意味がなかったようであります。

終わった後に聞いてみると、分類1の人でやっぱりあまりしゃべれなかったという人がいました。

個人的な見解ですが、どんな人も多く話した方が満足する、と思います。

でも、なにかが邪魔して話せない。

ワタクシのように話しすぎる人は、ある種の病の様に話し続ける。

そして3に該当する人でも、話せる内容に偏りがあるかも。

いつも話さないような内容こそ、話したくないような内容にこそ、話す「意義」があるかもしれません。

さてワタクシがいたテーブルでは

「本当にやりたい事はなにか」

について話していました。

自分自身を知ることは、意外にむつかしい。

一見明らかな目標がある人でも、その目標に向かっての取り組みが上手く進められないことがあります。

頭では分かっていても、行動が伴わない。

それがなぜなのか、飲み会の後に調べてみました。

教室のメンバーについて、心理の深い部分で

「足掻いているのかいないのか」

をみてみる。

ここでの「足掻く」の意味は心理面の苦痛というより、現状を変化させたいという欲求があるかどうか、強いのかどうかのことであります。

この「足掻き」がなければ行動を起こすための「原動力」がないので、自分自身の取り組みで理想とする状況へと近づくことは、おそらく不可能。

心理の深いところで現状に満足、あるいは受け入れているのであります。

それなのに世間の常識とか周りの人たちの意見もあって、現状でよしとは思えない場合もあるでしょう。

うちの教室では、人生ですでに一定以上の成功や満足を得ている人が多いようで、強く足掻いている人は少数のようでありました。

足掻いているのなら、どこかに進んでいくでしょう。

ワタクシの場合は、今得ているスキルなどには十分満足しているのでありますが、まだ足掻いているようであります。

でも、どこに向かおうとしているのかが自分でも分からない。

分からないけど、現状はなにかが「しっくりこない」。

でありますから、まだ瞑想のセミナーに行ったり、研修で海外にも行ってみようと算段しているのだと思われます。

「足掻き」とそれによって喚起される行動。

それだけが目標や理想像に近づけるか否かを決める要素?

それを「あっちの人」に聞いてみると

「NO」

という反応。

それ以外に働いている力。

それはつまり

「天意」

なのだとか。

なにかに導かれるように進んでいく状況。

教室のメンバーにも天意に導かれている人が1人おられるようで、それにはビックリですが、あ~、あの人ならそうかも~。

本来足掻かないといけない人が、心理の深いところで足掻いていない場合、どうしたらいいのかという質問がありました。

どうでしょうか、何かの心理ブロックが「足掻き」出現を妨げているケースはあるかも。

それならばブロックをケアすることで足掻きだすように思われる。

が、かなりレアなケースのよう。

それよりも、足掻いていない人の現実世界の状況がかわることで足掻きだす、というのがよくあるストーリーだとか。

急に「天意」が働きだすこともあるかもしれない。

ワタクシが「足掻いていない」と言った教室のメンバーで、

「そんなことないです」

と否定した人は結構おられました。

私だって足掻いているんです、と。

まぁワタクシの感覚なのであるいはそうかもしれませんが、足掻いていることに対してリアルな行動を起こしているのかどうか。

起こしていないのなら、足掻きの度合いはさほどでもないのでしょう。

「足掻き」が強いのなら、行動を起こさざるを得ない、行動は必然的に起きてくるものだからであります。

でも「足掻いていない」ことは幸せなことではないでしょうか。

現状を深層心理で受け入れている。

日常を静かに過ごしている。

それは神の祝福?

足掻く人には、激しい取り組みを。

そうでない人には、静かな毎日を。

ということで、今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

パワーの人

ワタクシの施術を受けに来てくれる人で、整体とかヒーリングとかスピりチュアルなどの業界人ではないにもかかわらず、不思議な感性を持っている人がいます。

人呼んで「マダムN」

彼女はこれまで、数々の能力者、腕利きの施術者の力を借りつつ、人生の荒波を生き抜いてきたのだとか。

そんな彼女がワタクシの所へやってきているのには、もちろん理由があります。

彼女は単に能力者のエネルギーの質や力量を見抜くだけでなく、その「得意分野」を的確に感じ取れるようであります。

今の彼女が抱える問題に対し、ワタクシの施術スタイルは相性がいい。

でありますから、希少能力者でも有名でもないワタクシの所に彼女はやってきているのであります。

そんなマダムは、何らかの能力者や施術者を

「パワーの人」

と表現します。

曰く

「ダメなのか良いのかはすぐに分かる。全然ダメとかね」

だそうであります。

先日、そんなマダムの帰り際、次の施術順で待合にいた「患者さん」を一瞥して

「パワーの人?」

と聞かれたのであります。

一瞬で何を感じられたのか、とても興味深い。

何のパワーも持たない人を見て、そんな言葉がマダムの口からでてくるはずがないのであります。

さてマダムに「パワーの人」との認定を受けたのはどんな人物なのか。

この人物「セラピストM」については、ワタクシも不思議を感じる存在であります。

彼女は「能力」においてはまだ発展途上で、持っているポテンシャルを考えれば3分の1くらいしか開花していない段階。

であるにもかかわらず、なにかの魅力をもっている。

なにかしら

「キラキラしたもの」

を感じる。

だけれども神仏や霊的存在との強い関りも、調べてみたところなし。

そんな人物であります。

今回マダムの評価を得て、ワタクシは

「やっぱり何かを持っている」

と確信しました。

その「何か」の正体を、もっと調べてみる気になったのであります。

とはいえ、何を調べればいいのやら。

これまでにも結構調べてみてはいたところなのであります。

そんな折、少し前の記事にでてきた、

「ワタクシをソウルメイトと当てた人」

から、出かけたお土産にお守りを買ったので、渡す前に画像を送ります、とのメッセージが。

見てみると、いきなり何かと「繋がった」と直感。

そして

「ぐぐっっ」

と体の中にまで押し入ってくるようなかなり強い感覚。

これは、これまで関わってきた神様とか霊的存在が、関りの度合いを上げてくるときの感覚とはかなり違うような。

ひょっとして悪い存在?魔物?

はっきりした感覚のため、やばいのかしらとも思って入ってきた物が何かを調べてみる。

するとなんと、調べられない。

調べられる領域を超えた存在のようであります。

そんな霊的存在が今までにいたかどうか。

おそらく、調べられないような高度な存在であれば感知もできないので、居ても気づくことすら不可能。

なのに今回は感じている?

どうにかして調べる方法はないのかといえば、「ある」というのが最近のワタクシなのであります。

普段の意識状態でダメなら、まず自分の行ける最も深い意識状態になって維持し、その上で調べれば、普段より広い範囲のことが判別できるという、単純なカラクリ。

少し前までは「意識最深度キープ君」の力を借りてやっていた作業を、キープ君なしでもできるようになっている。

最も深い意識状態にもっていくまでに2分くらいかかっていたので、結構面倒くさいし集中しなきゃいけないし気が進まない操作であります。

余談でありますが、こういう時の「意識の集中」とは、一般の人がやったことがない種類の集中であります。

「どこにも意識の焦点をつくらないことに集中する」こと。

さて調べてみると、この新たな霊的来訪者とワタクシの関りがまだ開発途中だそうで、意図して自分の中に招き入れる作業を繰り返すのが良い、という反応。

その作業を何度もやっているうちに、「ぐぐっ」とかなしに、スムーズに中にまで入ってくる、中にまで繋がった状態になった様子。

この状態はこれまでの霊的存在との関りでは感じたことがない感触。

これまでは自分という存在の表面に霊的存在との繋がりが、イメージとしては「パイプが繋がった」ようにできる感じ。

今回のは、もっと自分の中心と繋がったような感覚。

なるほどこういう関わり方もあるのか、と知ったのであります。

関わり方の違いが調べられなかった理由なのでありましょうか。

と、そこで「セラピストM」についてピンときたというわけ。

彼女もこういう形で霊的な存在と繋がりを持っているかもしれない。

調べてみると、やはりそうだったのであります。

「きらきらしたもの」の正体は霊的存在とのすごく深い関りの可能性が高い。

もちろん、他の要素によるものかもしれない。

なにしろ彼女の行動原理は、一般人とは違うように見受けられる。

でもま、一応の結論として腑に落ちているワタクシであります。

とまぁ、ここまでは良かったのでありますが・・。

このあとの新たな人物登場により、霊的存在と人とのかかわりについて、すごく混乱しているワタクシであります。

誰の言っていることが正解なのかが分からない世界。

ワタクシは施術の人間ですし、体や精神の問題が解決すればそれでいいし、どんなに意義深げなものでも、効果なければ「意味なし」のスタンスです。

そこに立ち返ろうと思った次第であります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

聖なる呼吸

今回の投稿は、ヨガや気功の訓練者や興味のある人、そしてワタクシのようなエネルギーキチガイ、スピリチュアル狂以外の人にはたぶん、どうでもいい内容であります。

タイトルにある通り、ドキュメンタリー映画「聖なる呼吸」についての感想なのであります。

「聖なる呼吸」の内容は、ヨガを現代の形に確立したクリシュナマチャリアと彼の子や直弟子についての話。

直弟子や子らがクリシュナマチャリア在りし日の話などを披露してくれている。

ワタクシは昔話にはほとんど興味なし。

でありますから、この映画を通して注目していたのは

「登場人物の背骨の中をエネルギーが通っているのかいないのか」

だけであります。

ワタクシの認識では、ヨガ・気功において背骨の中に強いエネルギーが通っていることは、訓練により大きな果実を得たことの証明であります。

そして「通っている」人物がごろごろ出てきたことに、まず驚嘆させられたのであります。

「ごろごろ出てくる」ことが意味することは、背骨を通す手法が確立されているということなのであります。

ワタクシはヨガについてはほとんど知らないので、例えば国内でヨガを指導している人達のなかに、どの程度「通っている」人がいるのかも、全然分からないのであります。

でもおそらく、非常に少ないのではないかと推測する理由は、そんな人に会ったり、うわさを聞いたり、画像を見たことが一度もないからであります。

気功の実践者においても、「通っている」人は少ないというか、まさに希少な存在であります。

国内の有名な実践者においては、まだ一人も見つけたことがないのであります。

いえ、正確には先月、

「あ、、通りかけている・・・。」

という、言ってみれば「羽化」の最中にある、ある人の一場面に出くわしたところでありますが、その一例くらいであります。

そんな「通っている」状態に、どうして強い関心を抱いているのかというと、ワタクシの先生がそれを成し遂げておられたという事と、それが原因で亡くなられたのではないかと思われるからであります。

先生が亡くなられた当時のしょぼいワタクシでは、先生のエネルギーがどうなっていたのかは全く分かりませんでした。

でも今になって、元気なころの先生の雰囲気をイメージで再現して調べると、確かに背骨の中をエネルギーが強く流れているように感じることができます。

過去のことをなぜ調べられるのかは、ワタクシにも分かりませんし、「ほんまかいな?」と言われれば「間違いない」とまでは言えないのでありますが、患者さんが胎児だったころのエネルギーなども調べたりして活用しているので、単なる妄想でもないと思われるのであります。

さて、先生が背骨の中に通されていたエネルギーは、本来背骨の中には流れていない、ある意味「粗雑」ともいえる、手足などにも流れているエネルギーであります。

ワタクシの感覚によるなら、「中枢神経系」に自然な状態で流れているエネルギーは、手足などのものとは質的に違うのであります。

本来と違うものが流れた時に脳や脊髄に負担がかかることは、クンダリニー上昇にリスクがあるとされていることや、先生に起きたことを考えると、容易に想像できます。

でありますから、ワタクシはそのような手法は行うべきではないと考えていたのであります。

が、映画をみて「完全に間違った認識」だったと理解しました。

なぜなら、クリシュナマチャリアやその子供たちが背骨に通しているエネルギーは、まさに手足のエネルギーとほぼ同質のものだったからでありますし、そしてまた感覚的に調べてみても、健康状態は良いと感じたからであります。

でありますから、背骨に安全な形で強いエネルギーを通す手法は、確立されたものであることは間違いないでしょう。

ただ、であるならば、「逆に疑問点が生じる」というのがこの映画の一番面白いというか、ミステリアスな部分なのであります。

といいますのは、登場人物の中で、クリシュナマチャリアと同じ質のエネルギーが背骨に通っているのは「実の子」のみで、他の弟子は通っていないか、もしくは義理の弟のアイアンガーがそうですが、通っていても違う質のエネルギーによるものだからであります。

アイアンガーはクリシュナマチャリアの指導方針に反発して彼の下を去り、独自の手法による「開通」を成し遂げたようであります。

中国三千年の歴史秘話にでてきそうな、「門外不出」やら「一子相伝」のような話なのかもしれません。

クリシュナマチャリア流「開通」手法が、どのくらい世の中に広まっているのかは分かりませんが、独自の手法で臨み、失敗する人は少なくないかもしれません。

ワタクシの先生のように、であります。

そういえば日本の仙道で有名な高藤さんも同じ失敗をしていた可能性があります。

最期は狂人になって、病院にいたという噂があるので・・。

クリシュナマチャリアと先生が、背骨を通すのに利用したエネルギーの質はおそらく同じ。

ではなぜ先生は失敗したのか。

ワタクシが想像している通りに、先生が「粗雑なエネルギーを通す手法」で失敗していたとすると、その理由はエネルギーの質ではなく、流れていくルートの確保が不十分だったと、一つの仮説として考えることができます。

ここでは詳しく説明しませんが、気功とヨガの訓練方法は似ている部分もあり、明確に違う部分もあります。

その中で重要と思われるのは、確保していくルートの違いであります。

その違いにより、大きなエネルギーが背骨の中を上昇した後に、脳からスムーズに送り出すことが出来ていなかったことが先生が失敗した原因だと推測することに、無理はなさそうであります。

他にも失敗した理由になりそうな要素はあります。

それは、マチャリア流開通を成し遂げている人達は、みんな意識状態が非常に深い、ということです。

意識状態の深さとは、本来潜在意識下にある領域のうち、おぼろげながらも顕在意識下に置くことができている範囲の広さのことでありますが、たぶんなんのこっちゃ分からない説明であります。

意識状態が深くなければ、例えば背骨の中に本来流れているような繊細なエネルギーは感じ取ることが出来ないと思われます。

普通にヨガの鍛錬をやっている人や、マチャリアの直弟子でありながら開通していない人、そして当時の先生の意識状態の深さは、一般の方と大差ないと感じます。

ということは、マチャリアは実の子に対して、特別な内容の訓練を施していたということになるのかもしれません。

それがどんな内容だったのかは、推測することはできる、かも。

というのは、全く別の業界にも開通者がいるからであります。

それは心理学の業界。

実際にお会いした人は一人だけですが、他にもおられるとネット上の画像などを見ていて感じます。

業界全体だと人数が多いので、ひょっとすると5人以上おられるかも。

その方々の背骨の中に強く流れているエネルギーは、アイアンガーと同じもの、つまり本来弱いながらも背骨の中を流れているエネルギーであります。

でありますから、マチャリアが背骨に通しているエネルギーとは違うのでありますが、意識が深いということに共通点があります。

心理の専門家がエクササイズとしてやっているだろうことは、おそらく「自分の内面に向き合うこと」でしょう。

通常のヨガの訓練者が熱心に肉体面への探求を行っても意識は深くなっていない。

ならば、足りない訓練の方向性は明らかです。

ただ、マチャリア流開通者は、心理学の人やアイアンガーに比べれば、意識状態はやや浅い。

意識状態の深さと、意識でのエネルギーの操作をうまく組み合わせた開通方式かもしれません。

おそらく、背骨の中に強いエネルギーを通すだけなら、心理面へのアプローチの方が効率がいいのではないかと思います。

なにしろ、背骨の開通を意図していなくても通っている訳ですから。

ただ、気功やヨガの訓練者が背骨を通したのなら、そこから得られる果実はもっと大きなものになります。

それは「丹」の生成やそれ以降のルートの開発による、肉体面の強化です。

心理学方式の開通の場合、肉体への影響はさほど現れていないように感じますので、ワタクシ的にはとても「もったいない」という印象。

「丹」については気功の訓練によるものと思っていたのですが、「聖なる呼吸」の登場人物にも丹が2つある人がたくさんいたので、そうではないようであります。

この映画の中で、一番印象に残っているのは、冒頭に登場する若いヨガ・インストラクターであります。

彼は映画に登場したどの開通者の弟子でもなさそうですが、しっかり背骨の中が開通しています。

なにか、その程度の訓練者は珍しくもないですよ、と映像企画者が言っているかのよう。

ヨガの訓練者への、何らかのメッセージのようにも思えるのであります。

よりよい教えを、みんなのために。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

〇〇さん

先日ある歌番組をみながら遅い晩御飯を食べていたところ、エンディングの中で流れてきたサウンドに、瞬間的に「きたっ!」の反応。

超ド級ストライクの感覚につられて見てみると、「えーと、BiSH?」と初めて聞くバンド名。

たぶん若い人なら良く知っている存在。

なかなかよろしんじゃないでしょうか、ということで調べていると、

「KAZUYA YOSHII」

つまり、吉井和哉の作詞作曲でありました。

彼の楽曲は大好物でありますので、先刻の反応も納得。

好きなものを嗅ぎつける「嗅覚」というものは、ワタクシにもそなわっているようであります。

あーでも、BiSHはなんともう、解散するのだとか。

今どきのグループとしては少数派の、直球勝負のようなパフォーマンスも好印象でしたが、残念であります。

また違った形で突き抜けた姿を、今後見せて欲しいところであります。

さてワタクシは、タオイストジャパンによる4泊5日のセミナーに参加し、またまたいろいろなものを収穫してきたところであります。

今回はセミナー中に試験を受けたこともあり、途中までセミナーの内容を満喫できなかったように思うのでありますが、試験後は水を得た魚のようでありました。

今回の会場はすごい山の中で、周りにはお寺と自動販売機1つだけしかない秘境。

そのお寺にすごく良い仏様がいるということで、ちょうど行く予定というお二人とともに会いに行きました。

すごくちっこい仏さまでありましたが、周りに置かれている大きな仏様などよりずっと強くて気持のいいエネルギーを放っておられました。

そのあと、周辺の参道を歩いて、さらにいくつかの祠や摩崖仏を見て回りました。

宿に帰ってきてセミナーを受講していると

「あ、誰かやって来た。。」

という感触。

とっさに、一緒に行ったお二人のほうにも来ているかエネルギー的に確認してみると、やっぱり来ているような感じ。

で、休憩時間になったとき、

「来た?」

とお二人に個別に聞いてみたのであります。

いきなりそんな質問をしても、普通の人ならなんのこっちゃでありますが、特にエネルギーに敏感そうなSさんは

「来た!」

とはっきり答えました。

ワタクシは自分の感じる事柄について、本当かどうか確認できたことが今までなかったので、やっぱり妄想じゃなかったんだということでとてもうれしい出来事になりました。

でも実は、どの仏様がやって来られたかについて、はじめ意見が食い違っていたのですが、あとで調べなおしてワタクシの方が間違っていたと分かりました。

Sさんの場合はワタクシのようにYESかNOかで判断している訳ではないので、どの仏様がこられたのかは、間違える余地がないのだと思われます。

今回のセミナーでは、高度な資格に挑む人達、タオイストジャパンに関わるメンバーのなかでも中心的メンバーが多く参加していたようで、Sさん以外にもかなり敏感な人がおられた模様。

今後もなにかとお世話になるだろう人達であります。

セミナーでは他にもいくつかのことが起きたのでありますが、最後の日に踊ったあと、誰かが泣き出すと、なぜかワタクシも泣けてくる不思議。

やっぱり不思議なセミナーなのでありました。

全部が終わって駅で帰りの電車を待っていると、豪雨で遅延とのアナウンスが。

今回の会場は京都だったのでありますが、関東や中部地方から来ている人達も当然いて、新幹線に間に合わない、切符を取り直さないと、という事態になりました。

で、時間をつぶすなどのため、飲みに行くのがみんなの都合に良い、ということに。

6人で飲みに行ったのですが、セミナー前は全く知らない人ばかりだったのに、すごく落ち着くし楽しいし違和感がないしで、まさにミラクルな飲み会になったのであります。

人の縁ほど面白いものはないですね。

ワタクシは普段、施術者として、あるいは気功を教える者として誰かに出会っています。

何かを教えてもらう側として出会うことももちろんあります。

でも、飲みに行ったみんなと話していると、

「仲間」

という言葉が浮かんで来たのであります。

対等な立場というのは、すごく心地の良いものでありますね。

そういえば、タオイストジャパンという集まりからも、「対等」という雰囲気をすごく強く感じるのであります。

例えば代表は「タリカさん」という人ですが、多くの人が

「タリカ」

と呼び捨てにしています。

男の人の集まりだと、成立しにくい文化であります。

セミナー中や飲んでいるとき、新しい仲間に

「〇〇さん」

というと、

「〇〇でいいよ」

と何度も言われました。

あ~でも、

「〇〇さん」

が落ち着く脳みそになっちゃってるのであります。

さん付けは、人が親しくなるのを邪魔する要素があるよう。

ワタクシは患者さんから「もも先生」と呼ばれることがよくあります。

というのも、みなさんワタクシの名前を知らないからであります。

そんな呼び名が

「もも」

だけになる展開もあり得るのでありましょうか。

人生先が読めないところが良いですね。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

好転反応

ワタクシの施術は、かなりゆるいタッチといえばいいのでしょうか、弱い圧でおこなっています。

でも、体全体にかなり大きな変化を与える手法なので、その反動でいわゆる「好転反応」がしばしば引き起こされます。

好転反応とは、回復の過程で一時的に症状が逆に酷くなったり、全く別の症状が出てきたりする現象のことであります。

初回の施術の後、おおむね3週間~1ヶ月あけて次の施術を受けて頂くことが多いのですが、重い症状で来られている患者さんの場合、施術後1~3日後にお電話をいただくことがたまにあります。

電話の内容は

「このままで本当に大丈夫でしょうか」

といった内容であります。

ほとんどの場合、その時点で電話越しに検査をすると体がまだ回復の真っ最中で、施術はしない方がいいという結果になるので、そのままもう少し様子を見るようにお伝えします。

そしてその後、時間の経過とともに回復が進んで、患者さん本人にも効果が分かってもらえるというのが予測しているパターンであります。

このパターン通りにならない場合、体全体の状態が悪くて効果が現れてくるまでにさらに時間がかかる場合と、単純に施術が失敗している場合があります。

そのどちらなのかの見極めは、時として困難な場合があります。

ワタクシ自身の体は超難解なので、しばしば好転反応に苦しめられておりますます。

ぎっくり腰の様な状態になったり、普段から悪い肌の状態がとんでもないことになったりしています。

そんな時、ワタクシの思考回路はいつも同じ判断を下します。

それは

「この悪化は効いている証拠だから、もっとやった方が良い」

というものであります。

でも最近見つけ出した問題への施術では、反動のあまりのきつさに、やっと気が付いたのであります。

もっと優先して施術すべき問題があるのではないか、ということにであります。

ワタクシの手法は、どこからケアすれば良いのかを体に聞いて決める、ということでありますから、順番を間違えることは基本ない、はず。

でも間違えているとすれば、ワタクシがまだ知らない問題が体に起きている可能性が高いのであります。

患者さんの体に、

「どこを最優先でケアして欲しいですか?」

と聞いても、ワタクシの知らない問題はターゲットに入っていないので、そこへの施術が答えとして返ってくることもないのであります。

でありますから、全部の問題をターゲットにできるよう、ワタクシが長い時間をかけてやってきている作業は、体に起きる未知タイプの問題を探し出して、認識下に追加するというもの。

ワタクシ自身の肌に関しては、とにかく一度悪化するというのがいつものパターンであり、その理由については

「皮膚下の老廃物や汚染物質の排泄が激しくなるため」

と解釈してきており、そこに疑問を感じていなかったのは、微生物や重金属、化学物質などの汚染が症状の出現の原因になっている、と考える学会に10年以上関わっていたからかもしれません。

が、とうとう今回

「それって違うでしょ?」

と感じたのは、末期がんの患者さんに対して施術した場合でも、肌の変化が何も起きていないことに「ふと」思い至ったからであります。

他の重い体調悪化もそうですが、末期がんともなれば体内に排出すべき物質がたくさん蓄積しているだろうという考えに無理はないでしょう。

でも、多くの場合肌に何の変化もなし。

じゃあワタクシの皮膚は一体なぜ悪化するのか、であります。

そこで思い出したのが、プロテインの作用する組織を調べていた時のことであります。

医学的にもタンパク質の十分な摂取が重要と考えられるようになってきている中、ワタクシの場合はどこに効いているのか調べると、意外に臓器でも脳でもない。

なんと「神経」でありました。

とても広い範囲に分布している神経全体に効いている感覚がある。

効くということは神経に異常がおきている可能性が高い。

これは一体どういうことなのか。

そしてさらに別の組織にも効いているという検査の反応。

それがどこなのか、突き止めていなかったのであります。

改めて調べてみても、なかなか探し出せなかったのでありますが、とうとう見出したのは

「脊髄から背骨の外へ神経が出ていくあたり」

つまり神経根といわれる部位。

ここに何かが起きているので、それに対してタンパク質が効く反応が出ている。

ついでに神経の問題もここが引き起こしているらしい。

じゃあ、その「何か」とは何なのか。

分かったのは、ここで脳脊髄液の流れがストップしていること。

脳脊髄液は脳から脊髄の方に流れてきていますが、脳神経や脊髄神経にも流れて行っているのであります。

脳神経とは脳から出ている視神経とか顔面神経とかの神経、脊髄神経とは脊髄から背骨の外に伸びている神経であります。

こんな基礎知識まで書くなんて、なんて親切なブログでありましょうか。

とにかく液体が神経根のところで流れなくなっている。

なんでありましょうか、この異常は。聞いたことがないトラブルであります。

が、見つけたのならあとは簡単であります。

なんでもいいから水が流れるようにすればそれで良いのでありまして、その方法はもちろん「あっちの人」に聞くだけであっさり判明。

身体に適切な手技を行って全身機能が活性化したとき、脳の奥から湧き出してくる脳脊髄液の量がふえるのですが、「水が流れていない」状況があちこちで起きていると、流れが止まっているところでの液体の「つまり」がもっと激しくなる。

どうやらこれが、ワタクシの肌の状態悪化の主要な原因だったようであります。

この新しい発見をもとに患者さんたちを調べていると、すごく多くの症状にこの問題が関わっているようであります。

また一つ賢くなったようで、大変満足なワタクシであります。

さていつも、有意義に生きているようなワタクシでありますが、今日は大きな挫折というか、妄想?について書こうかと。

ワタクシは一昨年の秋くらいから、ある人と出会うのを待っていました。

というのは、それまでずーっと、10年くらいの間通ってくれていたあるソウルメイトと関わらなくなり、人間関係の「潮目」が変わるような気がしていたからであります。

そのソウルメイトの方とは悪い因縁だったのですが、どんな時もワタクシの言うことを否定せず、まだ未熟なワタクシを勇気づけてくれる存在でありました。

でもその方には異性としての魅力を全く感じなかったので、なにかの関係が進展することはなく、とうとう関りが終わる時が来た、ということなのであります。

初めて会う人というのは、普通のお仕事の人なら数がそれほど多くないと思われますが、ワタクシの場合は毎月20人くらいの人と「施術者として」出会うので、結構な数であります。

プライベートで誰かと知り合う機会はほとんどないので、その中に新たなソウルメイトが含まれているだろうと予測していました。

新しい患者さんの予約が入ると、ソウルメイトかどうかを必ず調べることを繰り返していたところ、今から一年くらい前に、とうとうそれらしき人がくると分かりました。

ですから、その人が初めて治療院に入ってきた時のことはとてもよく覚えています。

そして施術の際に

「どうしてウチに来たのですか?」

と聞いてみました。

するとその人は

「いえ特には。家から近かったですし」

と答えました。

ワタクシは凄くがっかりしましたし、ごく普通に施術して、普通に帰って行かれました。

ソウルメイトかどうかの判断は、結構難しいです。

特に当時の感覚だと、ぎりぎり判断が可能かどうかくらいでしたので、単純に判断が間違ったんだと考えました。

2回目に来られた時も特別な事がないまま、施術後のウォーターベッドへ案内しました。

その時にふいに会話が始まって、そのまま3時間話しました。

3時間。

「やっぱりこの人だったんだ」

と思ったワタクシは、会話の中で、なぜウチの治療院を選んだのかをもう一度聞いてみました。

するとその人は「神様に聞きました」という主旨の返答をしたのです。

そんな人に会ったことあります?

ワタクシはありませんでした。

今では結構、そんな人も来ますけど。

その人との会話は不思議で、今までしたことのない種類の会話とでもいえそうな、脳みそがすごく疲れる、でもすごく刺激的なものに感じました。

3回目に来られた時もまた、最後の患者さんだったこともあり、3時間くらい話しました。

その日の晩、ワタクシはその人について

「ワタクシにとって一番大切なことは、あの人のすぐそばにいること。」

だと確信しました。

もちろんワタクシは単にソウルメイトというだけでなく、相性とかそのほかいろいろな事柄について調べてみて、疑問の余地なし、と思ったのであります。

そのあと、いくつかの出来事があって、ワタクシの感覚だと毎日のようにその人のエネルギーがやってくるのを感じるのですが、ワタクシの願いは叶えられないんだ、と最近になって分かってしまいました。

今ではいろいろな検査、リーディングも上手くなり、その人と何かが通じていると思っていたのでありますが、それは単なる妄想?

そんなのありえない、と思いたいところですが、自分自身が深く関わる事柄への検査はとても、間違えやすい。

どちらにしても、物事は完結しました。

これがワタクシの、ひょっとして人生最大の妄想?、もしくは失敗であります。

でもま、面白い日々だったかなと思います。

そして次々に、面白いことはやってきています。

すごくびっくりしたことは、なんと新たなソウルメイトがやってきて、ワタクシがソウルメイトだということを言い当てたのです。

ワタクシ以外でソウルメイトのことが分かる人に初めて出会いました。

これからどんな展開があるのでしょうか。

すごく楽しみです。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!