先日、半年に一度の「気功教室の飲み会」をしました。

一緒に話す人数が多くなれば、二人で話していても出てこない人柄の一面がはっきりとでてきたりする、と感じます。

そんなときにも、どんな風に振舞うのか、「いつものやり方」というのがありますね。

「いつもの」とはつまり、慣れたやり方、無難な振舞であります。

もちろんそれでいいでしょう。

でも、自分自身を「変える」のを目的とするなら、やったことのない振舞いをしてみるべきでは、と思います。

でありますから今回は、

1 あまり話をしない人にはもっと話すように
2 話をしすぎる人には話を控えるように
3 どちらでもない人にはあまり話をしない人に話を振るように

言ってから会をスタート。

誰が1~3のどこに属するのかも調べたので、みんなに伝えておきました。

考えてみれば酷い飲み会であります。

単なる実験?

それでも結構うまくいったのでしょうか、3時間経ってもだれも帰りたそうな素振りなし。

ワタクシ自身は話をしない人が気になる性分で、特に教室の飲み会だと自分がしゃべりすぎなので2の分類ですが、酔ってきたら結局しゃべってしまったので意味がなかったようであります。

終わった後に聞いてみると、分類1の人でやっぱりあまりしゃべれなかったという人がいました。

個人的な見解ですが、どんな人も多く話した方が満足する、と思います。

でも、なにかが邪魔して話せない。

ワタクシのように話しすぎる人は、ある種の病の様に話し続ける。

そして3に該当する人でも、話せる内容に偏りがあるかも。

いつも話さないような内容こそ、話したくないような内容にこそ、話す「意義」があるかもしれません。

さてワタクシがいたテーブルでは

「本当にやりたい事はなにか」

について話していました。

自分自身を知ることは、意外にむつかしい。

一見明らかな目標がある人でも、その目標に向かっての取り組みが上手く進められないことがあります。

頭では分かっていても、行動が伴わない。

それがなぜなのか、飲み会の後に調べてみました。

教室のメンバーについて、心理の深い部分で

「足掻いているのかいないのか」

をみてみる。

ここでの「足掻く」の意味は心理面の苦痛というより、現状を変化させたいという欲求があるかどうか、強いのかどうかのことであります。

この「足掻き」がなければ行動を起こすための「原動力」がないので、自分自身の取り組みで理想とする状況へと近づくことは、おそらく不可能。

心理の深いところで現状に満足、あるいは受け入れているのであります。

それなのに世間の常識とか周りの人たちの意見もあって、現状でよしとは思えない場合もあるでしょう。

うちの教室では、人生ですでに一定以上の成功や満足を得ている人が多いようで、強く足掻いている人は少数のようでありました。

足掻いているのなら、どこかに進んでいくでしょう。

ワタクシの場合は、今得ているスキルなどには十分満足しているのでありますが、まだ足掻いているようであります。

でも、どこに向かおうとしているのかが自分でも分からない。

分からないけど、現状はなにかが「しっくりこない」。

でありますから、まだ瞑想のセミナーに行ったり、研修で海外にも行ってみようと算段しているのだと思われます。

「足掻き」とそれによって喚起される行動。

それだけが目標や理想像に近づけるか否かを決める要素?

それを「あっちの人」に聞いてみると

「NO」

という反応。

それ以外に働いている力。

それはつまり

「天意」

なのだとか。

なにかに導かれるように進んでいく状況。

教室のメンバーにも天意に導かれている人が1人おられるようで、それにはビックリですが、あ~、あの人ならそうかも~。

本来足掻かないといけない人が、心理の深いところで足掻いていない場合、どうしたらいいのかという質問がありました。

どうでしょうか、何かの心理ブロックが「足掻き」出現を妨げているケースはあるかも。

それならばブロックをケアすることで足掻きだすように思われる。

が、かなりレアなケースのよう。

それよりも、足掻いていない人の現実世界の状況がかわることで足掻きだす、というのがよくあるストーリーだとか。

急に「天意」が働きだすこともあるかもしれない。

ワタクシが「足掻いていない」と言った教室のメンバーで、

「そんなことないです」

と否定した人は結構おられました。

私だって足掻いているんです、と。

まぁワタクシの感覚なのであるいはそうかもしれませんが、足掻いていることに対してリアルな行動を起こしているのかどうか。

起こしていないのなら、足掻きの度合いはさほどでもないのでしょう。

「足掻き」が強いのなら、行動を起こさざるを得ない、行動は必然的に起きてくるものだからであります。

でも「足掻いていない」ことは幸せなことではないでしょうか。

現状を深層心理で受け入れている。

日常を静かに過ごしている。

それは神の祝福?

足掻く人には、激しい取り組みを。

そうでない人には、静かな毎日を。

ということで、今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!