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感情の引き金

今朝起きると、聞きたくないニュースが飛び込んできた。

時の人、大谷さんの通訳を担う人物の事件。

詳細は知らないし、知りたくない。

単に思うのは、彼の置かれた特殊と言っていい状況が、彼の中の「何か」をおかしくしたのかも、ということ。

だれよりも身近な人を裏切ることになった悲劇。

一つの過ちが、彼の人生を破壊する。

でもそんなことは、誰にでも起きうるとワタクシは思うのであります。

物事に対して頭で理性的に、理論的に考えるよりも、瞬間的に湧き上がる感情の力が勝ることは少なくない。

感情のエネルギーを理屈で抑え込むことはなかなか困難であります。

理屈で考えて、自分自身を何度も納得させても、また同じ感情がやってくる。

それは感情のエネルギーが、意識の深いところにある記憶や認識により、なにかの拍子に反射的に引き起こされるから。

手で触れたものが熱かったときに

「熱っっ!!」

と決まって手をひっこめるのと同じように、反射的に。

この反射が重要なのは、反射により本人が

「なにを感じるのか」

が人により違うところ。

例えば今回の事件。

聞いて、自分が被害に遭ったわけでもないのに「怒る」のは普通、かもしれない。

でもおそらく、理想的ではない。

潜在意識がクリーンな人なら

「裏切られた大谷さんが可哀そう」

とか

「あの人、大変なことをしちゃったね」

くらいに、感じるような気がする。

怒りやネガティブな感情は、多くは親子間で、そして先祖代々受け継がれているかもしれない。

今の日本では、怒りや不安がまん延しているように感じる。

ワタクシにも怒りがまん延している。

どうでもいいようなことにさえ怒りを感じるのであります。

でも意識が深くなるにつれ、自分のそんな反応に、違和感がどんどん強くなっている。

ネガティブな感情が湧いてきたら、自分の中を調べる。

自分の中が、たんなる出来事をいらだちの原因に仕立てている。

それに気が付いたら、生き方が変わる。

意識を向ける方向が逆になる。

外から中へ。

そうなれば、どんな状況からでも人生を好転させられる、そう信じるワタクシであります。

やー、楽しくない記事であります。

話題はスピリチュアルなものにスイッチ。

ある人が言うには、昨日は

「宇宙のお正月」

だったそう。

それも通常よりもっと、大きな転換がおきるタイミングなんだとか。

ワタクシはそういうエネルギーの変化に、ひじょーに「うとい」。

何が変わったのか、全然分からない。

でも。

久しぶりに父の山登りに同行して、修験道のその山で、不動明王様にお参りしたときのことであります。

不動明王様の像を目の前にして、どうもしっくりこない。

ここじゃあない、とは以前も感じたことだけど、今回は放置できない感覚。

そういえば今回は、天候の悪さと遅い時間帯だったことで、付近に誰もいない。

誰もいないから、淡いエネルギーがよく分かる。

あっちの方か、と少し移動。

すぐそばだけど、行ったことのない辺り。

そこに

「鎮宅さん」

という祠。

なぜかそこに、不動明王様の強い感覚。

「こっちでありましたか」

ということで、何とも言えない満足感。

この出来事も、宇宙のお正月のせいなのでありましょうか。

ワタクシは基本的に、自分の感覚を重んじます。

感じないことは、否定しないまでもさほど意識しない。

でも、感じられたら面白いだろうとも。

面白いこと、そう、「うたげ」がもうすぐやってくる。

その集まりには、意識の深い人がごろごろいる。

意識の深い人に会うと、独特な感覚になる。

相手と自分の距離がなくなったような感じ。

たぶん、深い部分で相手と繋がる感覚であります。

普段会わない人でも、その感覚の中ではリラックスできる。

今回の集まりには、そんな人がますます増えているように予感する。

またきっと、ミラクルは起きてしまうのであります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマの神殿!

苦痛の産物

久しぶりの投稿であります。

ひと月ほど前、研修で行った北海道で歩いていると、猛吹雪で前が見えない。

土地勘のないところではGoogle map頼りのワタクシでありますが、スマホの画面も全然見えない。

おぉ、やっと見えた、と思ったら逆方向に歩いていたことが判明。

やばい、遅れる、と思って反転した瞬間すべって転んだとき、自分でもびっくりした

「イテッッッ」

とでかい声。

なんですか今のは?

痛みに耐えるための気合かしら。

奇妙だけど、まぁいい、とにかく急がないと。

その後研修先で整体を受けるも、打撲の痛みで効果の判定できず。

あんた一体何しに来たの?的展開。

でも問題はその後であります。

右脇腹強打の影響か、左肩に痛み発生。

それが何をやっても改善しない。

整体師の「こけん」にかかわる事態であります。

でありますが、実はワタクシの左肩は難物。

以前東京のレジェンド先生のところに研修に通っていたときも、ついでに治療を受けていたのでありますが、2年以上全く改善せず。

その後いつのまにか改善した古傷なのであります。

まぁ良い機会だということで、徹底的に調べてみたところ、

左肩周辺の骨の

「骨髄」

に問題ありの反応。

アプローチしてみたところまずまずの感触。

そんなところは通常調べない。

でも、人間の体はどこでも問題が起きる。

それがめったに生じない問題の場合。

施術は難航する。

しまいには

「どこを調べればいいのか?」

というこまった局面に突入。

実のところ、わざわざ北海道まで行ったのも、ワタクシにとって

「体の未知のメカニズム」

を見つけ出している人がいる、との観測に基づいてのことであります。

何しろ、知らない種類の不調は見つけようがないのであります。

これについての結論はまだ先にならないと分からないのでありますが、久しぶりに整体を受けてみると、新しい発想がいくつも浮かんできて驚いているところであります。

自分だけで探求するのも悪くないですが、やっぱり新しい風は必要。

多くの人が「風」を待っている。

どこか知らないところに連れて行ってくれるのを待っている。

ワタクシも待っている。

行きたいところはかなり決まってきている。

待っている「もの」も決まっている。

待つのはヒジョーに苦手でありますが、待つしか手がないものも。

もしあなたが

「わたしには一切風が吹かない」

と思うのなら、

「もっと自分自身を見るべき」

だとワタクシが思うのは、やはり超感覚カウンセラーH氏の影響。

昔のことを振り返る。

ワタクシは、父親によく叱られていた。

「隆行ちょっと来い」

と言われるたび、

「また怒られるんだな」

と思っていた。

でも不思議なことに、何を怒られていたのかあまり覚えていない。

覚えているのは、例えば野球の練習の成果が試合で出なくて気持ちが落ちているときに、その気持ちの弱さを

「なさけない」

といわれた事など、気持ちの部分への叱責。

ワタクシの親は理不尽な要求も体罰もなく、自分の受けた「しつけ」は肯定的に考えているワタクシであります。

それでも、ワタクシの内面には親が植え付けたと思われる

「縛り」

はたくさん存在しているようであります。

指摘されてみれば、確かに否定できない力がワタクシを支配しているのであります。

それを知って目を向けた今、それは「風」を生む熱になる。

ワタクシも、ワタクシをとりまく状況も、変わらざるを得ない。

やっぱり状況は自分の内面の反映だと思われるのであります。

何かを指摘してくれる人がいないなら。

自分で自分を見るしかない。

自分の気持ちの動き出す深いところを。

何も考えずにやっているいつもの行動にも、内面の動きが大きく関わっていることが少なくない。

例えばうちの治療院に患者さんが入ってくるとき、いつもと同じような動きをみんながする。

いつも明るく入ってくる人、かならず顔を伏せている人、毎回遅れるひと。

たんなる習慣にみえて、内面の反映は大きいのであります。

内面の動きに気が付いたなら、「風」はきっとやってくる。

もちろん自分の内面を自分ですぐに癒す術はない。

ワタクシにも癒せない重大問題はあるのであります。

この世で一番嫌なのは、自分の顔を見ること。

20年前に右目を失明すると分かったあと、徐々に瞳が透明ではなくなってきたと知った時の気分は忘れられない。

正直言って、さっさと死んでしまいたかったのであります。

今でも自分の姿を見ると、自分自身への評価が一気に0になるのを感じる。

単純にワタクシは美しいものが好きなのであります。

自分の顔を愛せないのはこの上ない苦痛。

意識を深く持てるよう訓練しても、まだ肉体をとても重要に捉え続けているのであります。

でも考えてみれば、この出来事をきっかけに真剣に気功を始めたわけでありますし、10年以上に渡り大した上達がなくても気功を諦めなかった理由なのであります。

これもワタクシにやってきた「風」なんでしょう。

苦痛ほど強い風はない。

それは、運命?

ワタクシはですから、気功教室であまり練習しない人は、

「練習するための理由がないんだな」

と思っています。

考えてみればそれは、幸いなこと。

一方で、熱心に取り組める人にはそれだけの理由があるのかもしれず、もしそうなら大変なようでもあります。

でもきっとそれは、本当の意味で行くべきところに誘う風。

風をぜひ、前進の原動力にしてもらいたい。

あの時の強い風に、複雑な心境ながらもワタクシは少し、感謝します。

そしてまだまだ、風はやってきそう。

あなたにも、できれば苦痛のない風がくるよう願います。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマの神殿!

揺らぐ

今年ももう半月が過ぎてしまいました。

みなさんはどんなお正月だったでしょうか。

ワタクシの年越しは、いつもの通りでありました。

元旦に山に登ってお参りして、2日は4つの神社参り。

近年は「おふだ」を買う数も増加しておりまして、今年は3枚でした。

ほんの数年前までは、お守りとか破魔矢とかに何の興味もなかったワタクシでありますが、今では毎日のように神様・仏様の力を借りているので、買うのが当たり前のようになっているのであります。

昨年の年末には狛犬も購入。

用途は、防御壁。

いわゆる結界。

相手は患者さんからでてくる、なにかしら気持ちの悪い方々、エネルギーであります。

なかなか凛々しい犬でありまして重宝していたのでありますが、連日の使役にすでにお疲れのようであります。

ネット上で調べたところ、100体に1体くらいしかいない、超つわものお犬様を選んで買ったのでありましたが、すでに力尽きる寸前のよう。

たしかに半端ない負荷がかかっております。

もちろんワタクシにも、毎日「何か」がくっついてくるので、昼休みや寝る前などにクリーニングしているというわけなのであります。

その「くっつき度合」がましになるということで、お犬様に守ってもらってみた、ということなんでありますが、もはや作戦変更もやむなしの状況。

半月に1体のペースで犬を消耗し続けるわけにはいかないでしょう。

それにしても、「なにかしら気持ちの悪い方々」に真正面から戦いを挑むというのは、かなりのリスクをはらんでいるのを感じます。

先日も、夜に90分以上もかけてなお、クリーニングしきれない相手が登場。

マジやばい奴であります。

そういうのがいくつもワタクシにくっついてしまったら。

シンプルに言って、ジ・エンド。

ということで、もっと良い方策がないか、日夜研究中なのであります。

このお正月期間には、良い体験もありました。

ある人への遠隔治療を依頼されてやっていたのでありますが、残念ながらお亡くなりになった時のことであります。

途中からは先方からのエネルギー的な反応が弱くなりすぎていたので、させて頂ける対処がもうなにもないと思っていると、それでも先方とエネルギー的につながり続けるよう、「あっちの人」のご意見。

意図がわからないまま、そうしていたのであります。

ほんの少し、意識のどこかで、つなげておく。

そのあと依頼者から連絡があり、亡くなられたとのことで、故人に対して「お疲れ様でございました」とか思ってふと気が付くと、ワタクシに見慣れない神様が一体。

どうやら故人からやってきた神様のようであります。

そうするための「あっちの人」の意見だったのでありましょうか。

なんにしろ、有難い出来事であります。

さてそんなワタクシの毎日は、少し元気がなくなっています。

理由は「インナーチャイルド」。

超感覚カウンセラーH氏のケアにより、心の奥底から少し、浅いところに引っ張り出されてきた21歳ごろのワタクシであります。

インナーチャイルドとは、かつてのある場面、ある期間の自分自身が、意識の中で「思い出されないように」葬られてしまった状態のことであります。

ワタクシは2年間ほど、全身包帯でぐるぐる巻きで寝たきりのような生活を送っていました。

その頃のことは、とても苦痛が大きかったにもかかわらずリアルには思い出せず、そういう時もあったという大雑把な記憶だけが残っているようだったのであります。

それはまさに、蓋をされた記憶なのであります。

H氏がおっしゃるには、その状態でも普段の自分への大きな影響力をもっており、何かの形で良くない判断、反応を引き起こし続けているのだとか。

その記憶が、意識の浅いところに上がってきている。

でもまだ、生傷のようなままの状態。

その記憶が、ワタクシの

「ウキウキ感」

を奪っている。

毎日ただ治療所に歩いてくるだけでウキウキしていたワタクシが、全然楽しくない。

やる気も出ない。

なんだかしんどい。

大好きな人と話しても、気分が上がらない。

これは重傷であります。

もちろんこの古い記憶に織り込まれた、苦痛やいろいろな感情が適切にケアされれば、これまでよりもずっと楽な自分が待っている。

でも今は、楽しくならない。

現実の今の自分の生活に、なんら変化がないのに、であります。

ようやくワタクシは理解しました。

自分のことを理解したりうまくコントロールできていると思っていたのは、単なる思い込み。

特殊な技能者が一突きすれば、もろくも崩れ去るまぼろしであります。

H氏のセミナーで

「本当の幸せを想像してみてください」

といわれても、もはや何が本当かが分からない。

今までの楽しさに確信がない。

でもその上で。

やっぱり心理・潜在意識は面白い。

その領域のことを、心理学的にではなく、エネルギーの動きとして調べてみたいと思うのであります。

もちろんまず、自分のインナーチャイルドから。

本来の自分、それも今はよくわからない気分でありますが、とりあえずウキウキする感覚を取り戻したいと思います。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ「の」神殿。

霊的ダメージ

とうとう今年も残りわずかになってきました。

この記事が今年最後になりそうであります。

ワタクシにとっては、とてもたくさんの人と出会った一年だったように思われます。

そしてまた、過去のものになっていく人間関係も。

あなたが変われば、関わる人達も入れ替わっていく。

どこかで読んだような、聞いたことがあるような話であります。

確かにそうなんでしょう。

薄れていく関係に寂しさを感じつつ、加えて過去の自分のあり方に痛々しさを感じつつ、新たな展開に期待だけを込めるワタクシであります。

現時点のことに没頭していると、新しいことは勝手にやってくるようであります。

先日、ある患者さんに引っ付いている「おばけ」のようなものに対処しようとしていたところ、ワタクシの通常の手法では「取り除く」とか「解決する」ことができないとわかりました。

そこで何か、ほかのツールを加えれば解決可能なのかと「あっちの人」に聞くと、「YES」の反応でしたので、「ほかのツール」とは何かを調べたところ、天然石を入れている缶の底にあった

「ソマチッド」

だと分かりました。

もう10年くらい前に、電磁波対策に有効ということで買って治療機器に貼り付けていて、今は機器を使わないのと、もっと効果の高いグッズを作成したので用なしとなっていた代物であります。

ソマチッドは人体にも住んでいる「古代生物」だそうで、言ってみれば平和的に寄生しているのだそう。

面白いのは、人が死に近づくと、

「この宿はもう危険」

ということで逃げ出していって、どんどん体内にいる数が減っていくと言われていること。

そんな古代生物が「おばけ」駆除に効果がある。

その理由を調べてみると、「おばけ」がくっつきやすい人はみんな、体内のソマチッドの数が少なかったのであります。

一年以上の間、定期的にケアさせてもらっている患者さんでもソマチッドが少ないケースが結構ある。

つまり、何かの意味で、体が治っていない。

一年以上も、であります。

なんてことでありましょうか。

何かを分かっっているような顔して全然分かっていない。

ヒドイ施術者であります。

一体どこが治っていないのか。

かなり調べていて、やっと分かったこと。

ソマチッドが少ない人は

「霊的エネルギーが減っている」。

減っているから「おばけ」がくっつきやすい。

とても分かりやすい理屈であります。

肉体のエネルギーとか、心理的なエネルギーと同じように、

「霊的なエネルギー」も減ってしまうことがあると分かったのであります。

さて、減ってしまっている人にはどんな問題がおきているのか。

今の時点で分かっているのは3種類の問題。

1つは、おばけよりもっと「ヤバイ奴」がいること。

おばけは大した力がないので、少してこずったとしてもさほど苦労なく追い払える。

けれど「ヤバい奴」に対しては、特殊な図面や石、オイル、神様、真言など、かなり面倒。

おまけに患者さんから取ったあと、ワタクシに一旦くっつくので、正直言ってやりたくない操作。

こういう操作は、施術者がもし気が付かずに続けていると、どんどんくっつく数が増えて、おそらく病気になるかキチガイになる。

とにかく要注意。

もう1つは「念」。

生霊とも言われる、生きている人からの攻撃的思念。

そして、誰かに対して向けた強い思念が自分自身にも与えてしまっているダメージ。

リアルタイムで思念が働いている場合は解決法がないけど、昔のものなら解消できる。

これもいくつかのツールが必要だし、対処するとき一番気持ち悪い。

おまけにこれも、ワタクシに矛先が。

無関係なワタクシに、なぜ?

最後は、通常の霊的ダメージ。

内容は、心理面へのダメージのうち、言葉にできないような深い意識まで浸透してくるエネルギー的打撃。

これはこっちにくっついてこないから安心。

これら問題を一掃できれば、2つの効果が見込まれる。

まず、精神面のつらさ、不安や心配などを大きく減少させること。

もう一つは、その人の本来の力を発揮しやすくすること。

もちろんおばけも憑きにくくなる。

実のところ、ワタクシもかつてそんなケアを受けたことで、能力を伸ばせるようになった者なのであります。

でありますから、霊的領域へのケアにはすごく価値を感じます。

くっついてくるものは面倒ですが、頑張っていく思いであります。

こういうケアをやっていると、いわゆる

「霊的障害」

にもかなり詳しくなってきているのであります。

この障害で苦しんでいる人の霊的エネルギーは、ヒジョーに少なくなっている。

その理由は、霊的ではない領域にも、問題が生じていることのよう。

物事への認識が歪んでいたり、人として必要な「何か」を得られない境遇で生きてきていること、など。

今後はこの方面での仕事も増えていくと予測しているのでありますが、思った以上に手ごわい障害であります。

信頼できる霊的感覚者との連携が必須であります。

ということで、さんざん調べてきた肉体の「しくみ」に関してはおおむね解明できたようで、主な探求項目からは外れました。

来年初めには心理領域についての講義も待っていますし、今後は「心理・霊」に注目してくことになります。

まだまだ探求して楽しめる。

大変ありがたい施術者人生であります。

ということでみなさま、今年も大変にお世話になりました。

来年もきっと、「画期的発見」という言葉を何度もワタクシから聞かされる羽目になると思われますが、お嫌でないならご来院ください。

みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿、ワタクシがおかしな方向に進まないよう、お導きください。

今後もよろしくお願いいたします。

「理解」を超える

先日、ワタクシの同志とトラブりまして、あやうく大切な人間関係を失うところでございました。

いやー、あぶないあぶない。

ワタクシの特に何の意図もないやり取りが、相手の不愉快を生じさせて、その相手の言葉がワタクシの中にある「地雷」を炸裂させるという展開。

言ってみれば出遭いがしらの「事故」のようなものであります。

こんな風にして失う関係も世の中にはあるのかな、と想像させられました。

同志? そう、同志でありますよ。

その人との関係を表現する適切な語彙がなにか、書く時に調べてみたのであります。

友人とか知り合いとか・・、結構見つけ出すのに時間がかかりました。

なぜなら同志ってあんた。

あまり使わない言葉であります、共産国なら使うだろうけど。

調べてみると、他にも同志はいるようでありますが、ごく「少数」。

今後のワタクシの活動に無くてはならない存在ということのようであります。

「この人とはどんな関係?」かをピッタリした言葉を探すことで把握することができる。

例えば普通の患者さんなら

「患者さん」

になるけど、場合によっては

「友達」

となることもまれにある。

気功教室の参加者でも、普通なら

「生徒」

だけど、

「友」

となったりする。

友達と友は少し関係性が違うらしい。

対等の関係の場合は、相手側から見ても同じ言葉がピッタリになる。

ワタクシの

「代わりがいない人」

も、そうなってるはずなんだけど、現実には今のところなっていない。

なんでだろ?

さて今日は、余談の続きみたいな内容でありますが

「感覚が使えなくなった」話。

ワタクシが使っているような検査スキルは、例えば「あっちの人」にチャネリング的に聞いてみる場合でも、肉体面のエネルギー状態などによって使えない場合がままある。

例えば朝起きた瞬間には使えないことが多い。

疲れてくると、集中を高めないと間違えやすい。

あと、ワタクシと関係性の大きい相手がこっちに意識を向けだすと、急に使えなくなる。

これは結構、困る。

こういうのは、当然他の人にも起きている。

以前気功教室の参加者の足にエネルギーが通っていないということで、特殊なジェルでケアをして通うようにしてみた。

すると通っていない状態がその人にとっての「普通」になっていたので、丹田に気を集めるという基本的な気の操作ができなくなった。

スキルというのは、安定した状態を前提に形成される。

だから、エネルギーの流れるバランスが変わるだけで、いつもやっていることでも一時的にできなくなるようであります。

さてワタクシは、自分の体から新たに見つけ出した「問題」を、連休前の夜に調整しました。

その問題は、ワタクシの体全体への影響力を強く持っているらしかったので、しばらくの間「感覚」がつかえなくなるかもしれない、との観測から、調整できるタイミングを待っていたのであります。

調整後。

見事なくらい何も分からない。

検査も当然できない。

もし誰かに施術しろといわれても、たぶん普通のマッサージくらいしかできない。

マッサージする部位の選定も、たぶんうまくできない。

なんと一日以上感覚がストップ。

その状態で過ごしていると、ワタクシが日常にどれだけたくさんの事を調べているのかよくわかった。

道を歩いているときでさえ何かの検査をしているのであります。

例えば

「今日くるあの人の調子はどうかなー」

とか、

「今日の教室ではどんな話をするべきかなー」

とかを調べたりしている。

調べるべきことは、すごくたくさんある。

おそらく普通の人からみれば、狂人。

完全に異常。

でもそれがワタクシの日常。

その日常が、昔何もわからなかったワタクシの日常に逆戻りした。

なんか奇妙。

あ、そうだった、今は分からないんだった、の連続。

半日くらいして徐々に慣れてくると、その方が平和な気がする。

なんだか「するべき事」が何もなくなったような感じ。

そして、昔と決定的に違っている自分に気が付いたのであります。

それは

「ほとんど何も考えていない」

ということであります。

おそらく昔のワタクシなら、色々な事についてあれこれと考えていたように記憶している。

でも今は

「やるべきこと」

を抜きにすると、何もなくなってしまったかのよう。

自分がいて、単に時間が過ぎているような感じ。

なかなか、いい。

おそらく、「無」の意識状態の訓練がすすんだので、雑念が出てきにくくなっているのであります。

そんな時にふと思い浮かんだ人がいる。

その人の雰囲気は、これまでに会ったどんな人とも違うようだった。

ワタクシ的には「自由」を体現した人のように見える。

本当の「自由」の味を知っている人は、たぶん世の中にはほとんどいない。

もちろんそれは

「自分自身からの自由」

であります。

うまく言い表せないけど、すごく魅力的。

ワタクシもそうでありますが、多くの人は何かにがんじがらめになって生きている。

その人をみると、そうでないのがよくわかる。

今まで会った人の中にも、「内なる静寂」を感じる人が何人かいた。

一見して

「中性的」

みたいなのを感じる。

そんな生き方に少しはワタクシも近づいているかもしれない。

でもそれは「自由」からはまだ遠い。

それは普通の人より、感情や思考が減っているだけ、かもしれない。

「自由」な人からは、もっと違った雰囲気が伝わってくる。

それは、「楽しそう」。

そしてそのエネルギーは、単に座っている時にも全開になっているようだ。

楽しく話している時だけ、ではないのであります。

それは驚異的。

そこには、ワタクシが知らない「何か」がある。

でもなんとなく、意識のどこかで、それがワタクシにも分かりかけている。

それはまだふわふわした感じで、はっきりしない、言語化できない。

「自由」な人に聞いた。

「それを理解できていないのです」

すると

「それは理解するようなものではありません」

だって。

なんか素敵。

ワクワクする。

「それです、あなたの探しているものは」

と、人ではない「だれか」がささやいたような気がした。

ワタクシの今後の旅は、そっちに向かっていくようであります。

楽しい毎日に、感謝。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!

創造性

しばしば患者さんから聞く、困っていることの一つは

「夜に眠れないこと」

であります。

たしかに夜には眠った方が医学的にもいい。

でも、

「~して当たり前」

という思い込みで苦しんでいるだけ、という人もいるかもしれない。

別に夜に眠れなくてもいいでしょ、というのがワタクシの考え。

このブログも、だいたい夜の12時過ぎから書き始めることが普通。

昔ライターだったころに、なぜか夜のほうが記事をかけたので、その習慣の名残もあるかもしれない。

次の日が休みともなると、ワタクシは夜中にがぜん「ウキウキ」してくる。

まだまだ起きていても、次の日に支障がないんだ、のウキウキ感。

ブログ書くのも結構好き。

書く内容さえあれば。

そう、記事を書くには「書きたい」と思えるネタが必要。

ワタクシの場合は「感情の動き」なくして記事は成立しない。

もしなければ、どうでもいい記事ができあがってしまう。

それに、悪い感情の動きは記事にしないことにしている。

もうみんな、悪い方向の情報はお腹一杯だからであります。

でも、良い感情の動きは限られる。

感激することはなかなかない。

なかなかない感激はそれゆえに、記事にならざるをえない。

だから昨今タオイストジャパンネタが多い、ということなのであります。

そういえば、タオイストジャパンのワークショップ等に5回参加して、だんだん理解してきたことがある。

参加するたびに何かの意味で泣いているワタクシなのでありますが、泣くと何かがゆるむ、もしくは自然な状態になる。

でも、時間がたつとまた元に戻ろうとする。

で、またゆるめる。

これを繰り返していると、もう前みたいには元に戻ってなにかが硬くなることがなくなってきている。

そう、長年の習慣は、体のものでも精神のものでもすぐにはリセットできないのであります。

本来の状態を「これがあたりまえ」と認識できるようになるまでに反復が必要。

でも効率よくそれを成し遂げる。

そういう意味合いを持つのがそこのセミナーであります。

と、余談がいつのまにか本題に?

話が元にもどりますが、会社勤めの人には夜更かしはおススメできないけど、年配の人なんかで昼寝もできる場合は、夜寝ることにこだわらなくてもよし、という話。

夜はやることがないんです、はまた別の問題。

さて、前回の投稿で予告した内容。

まず「OSHOカード」

伏せてあるカードを一枚引いて、そのカードの意味するところを教えてもらう。

ワタクシの場合

「CREATIVITY]

つまり創造性。

以前にある能力者に他の方法で見てもらったときにも創造性だった。

自分でいうのもなんだけど、創造性は旺盛と思われる。

ただあっちの人の言うとおりにしてるだけ、との意見もあるけど。

だけれども先生は、この言葉の背後にある

「破壊性」

について語られた。

ワタクシに対してだから、その一面を語られたのだと感じる。

確かにそうであります。

ワタクシは例えば旧態依然としたものは大嫌いなのであります。

「今までそうやってきたから」

あるいは

「みんながそうするから・・・」

もうそれは、最悪。

あぁ、こんなところでも前回書いた人間の酷さがでている、と感じる。

深いところから湧いてくる凶暴性。

そしてそれは、自分へのネガティブな認識からやってきている。

まだ攻略はできてはいないようであります。

さて

https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/what-is-creativity

このサイトにあるOSHOの言葉は、また違った角度から[CREATIVITY]について語っている。

抜粋させてもらうと

「創造性を特定のものに限定してはいけない。創造的なのは人間であって、ある人が創造的なら、彼がなにをしようと、ただ歩いているだけでも、彼の歩みのなかに創造性を見ることができる。彼が静かに坐って、なにもしていなくても、そのなにもしないことが創造的な行為になる。菩提樹の下でなにもせずに坐っている仏陀は、世界がかつて知ったもっとも偉大な創造者だった。

 それさえ理解すれば、創造的だったり非創造的だったりするのはあなた、人間だということを理解すれば、この問題は解決する。

 だれでも画家になれるわけではないし、その必要はない。だれもが画家になったら、世界はとても醜いものになる。生きていくのが難しくなる。そしてだれでもダンサーになれるわけではないし、その必要はない。しかし、だれでも創造的になることができる。

 なにをするにしても、それを歓びに満ちてするなら、それを愛情深くするなら、その行為が純然たる経済活動でないなら、それは創造的だ。自分のなかにそれから成長したものをもっているなら、それが自分に成長をもたらしたなら、それはスピリチュアルなもの、創造的なもの、神聖なものだ。

 あなたは創造的になればなるほど神のようなる。世界中のすべての宗教が、神は創造主だと言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っているのは、創造的になればなるほど、あなたは神々しくなるということだ。あなたの創造性がクライマックスに達すると、あなたの全生命が創造的になると、あなたは神々しさのなかに生きている。だから神は創造主にちがいない。というのも、創造的に生きてきた人たちは神にきわめて近くなるからだ。」

どうですか、きちゃったでしょ? ズン、みたいなの。

このような言葉の後、もはや書くに足る言葉は皆無。

ということで、今回の記事はこれでおしまいにしてしまうのであります。

今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!

No1ネガティブ

今回は予告どおり、今月行った瞑想のセミナーについての投稿。

前回の記事の最後あたりに書いた

「新しい展開」

というのも実は、このセミナーでの副産物。

一つの体験が波となって、「わたし」という存在の全領域に変化を引き起こしたようであります。

このセミナーの特性は

「OSHO」

という指導者の教えに従った内容、ということになるのかもしれない。

でもワタクシは、そこには今のところ興味がなくて、純粋に瞑想とそれに関するワークに取り組んできたということであります。

ただ、参加者の何割かを占めていた、「サニヤシン」と称するOSHO氏の考えに賛同する人たちが興味深いというのも否定できないところ。

そしてタオイストジャパンと今後も関わる中で、知らないうちにOSHO氏の思想がワタクシの中にも根付いていくかもしれない。

ワタクシは会ったこともない「ラマナ・マハルシ」の教えによって、ここまで進んできた者であります。

会ってはいなくても、それは「縁」というものなのかもしれない。

マハルシ氏の、あまりにも明確な教えと比較すると、OSHO氏の教えは核心を理解するのに少し時間がかかりそうな印象。

両者の教えの核心に違いがあるのかどうか。

それについては、今後書くこともあるかもしれない。

さて今回のセミナーでとても深い体験ができたワークは

「2人一組になって、自分自身へのネガティブな認識・評価をすべて相手に話す」

というものであります。

考えてみれば、自分に対して持っているネガティブな思いを誰かが打ち明けて聞かせてくれたことはあまりない。

なぜってそれは、少し考えればわかる。

誰だって、自分の一番痛い所の話はしたくないのであります。

でもあえて、それをやる。

最初にワタクシが話すことに。

ワタクシのネガティブでまず最初に思い浮かんだのは

「外見が受け入れられない」

であります。

25年以上今のような外見で生きているワタクシでありますが、未だに慣れることがない。

というか、受け入れ不可能。

そこには説明は不要であります。

次にでてきたのは

「やさしくない」

であります。

おそらくワタクシよりもっと優しくない人間は少なくないと客観的には思う。

でも、自分自身への評価は誰かとの相対評価じゃない。

自分の発する言葉の中に、「やさしさが足りない」を感じることが結構あるのであります。

「やさしさ」は人にとって、一番大切な要素だとワタクシは考える。

でもそこが足りていないのであります。

変えようと思っても、なかかな変えられないのが人間でありますね。

その次は

「賢くない」

ワタクシは賢さにヒジョーに興味をもつ人間であります。

そういう意味で、しょうもない奴であります。

昔自分が賢いと思っていたのに、絶対に負けないと思っていた学友にも受験で負けたのであります。

そのショックは未だに続いているようであります。

ホンマにしょうもない。

ということで、他にもいろいろとネガティブな評価はでてきたのであります。

しかしワタクシの場合、思ったよりはネガティブは出てきませんでした。

ワタクシの頭は、普段あまりネガティブな方向には意識が行かない性質なのであります。

そして、相手の番になりました。

ワタクシは自分のことを話し終えたので、やれやれの気分でした。

でも。

相手の人が話を進めるうち、その内容に

「なんて可哀そうなんだろう」

と心底思いました。

そしてその内容から考えて、その人のネガティブはワタクシのような性質の人間が作り出しているとしか思えませんでした。

そう思うと、涙が止まらなくなりました。

このワークは知らない人同士でやるのが前提のようですが、ワタクシの相手の人は以前にも会ったことがある人でした。

その人が、自分のことをそんな風にネガティブに考えているとは思いもよりませんでした。

目の前の人が心の中に傷を負って生きている。

それを本当にリアルに感じたのは初めての経験だったような気がします。

他の人からの攻撃よりも、自分自身への攻撃が一番抗いがたいものなのであります。

このワークの後、張りつめていた自分の中の何かが、消え去ったように感じます。

お互いが、相手に弱みを見せずに、平気そうな顔をして生きる世界。

それが今の日本のような気がしてきました。

なんてしょうもなくて、表面的で、おろかな社会なんでありましょう。

そしてその社会の、確固たる構成員のワタクシ。

いえむしろ。

ワタクシこそがバリバリの構成員なのであります。

でも、それは幻の世界だとはっきり認識しました。

それがとてつもないインパクトでもって「解った」ことであります。

このワークで、すぐに感じ取ったのはそんな印象でした。

そのあとワタクシは、新幹線の中で考え始めていました。

自分が挙げたネガティブのうち、一番強いネガティブはどれだったのか、について。

そんなのは、実際には考えてわかるようなものではないので、

「あっちの人」

に聞いてみたのであります。

すると、挙げた中には一番がないことが分かりました。

じゃあ何が一番なのか。

ネガティブな自分への評価や決めつけは、何かの拍子に

「ネガティブな感情」

を呼び起こす、と考えられる。

そこで、自分が強い「不快感」を感じる場面から探っていくことにする。

ワタクシは、予約をころころ変える患者さんは嫌い。

何度も予約を変更されると、すごく憂鬱になる。

それがなぜか、自分でも分かっていなかったのであります。

普通の人なら特に問題視するような状況じゃない。

でも自分にとっては問題になる。

何かが、悪い気分を呼び起こしている。

この答えにたどり着くまでには、1時間以上かかったような気がする。

「あっちの人」に聞きながらの1時間だから、かなりいろいろな事を調べてやっと導き出したこと。

それは

「自分は必要とされていない」

だったのであります。

この潜在的なネガティブがあるから、そこにひっかかる事象は耐え難い。

これがワタクシのNo1ネガティブでありました。

ころころ予約を変える=軽く扱われる=必要とされていない

の図式。

ここにたどり着いたとき、なんだかもう、胸の真ん中を杭で貫かれたような

「そう、かぁ。。」

としばらく身動きできない感覚。

そういえば、その思いが刻み込まれた事件があった。

「自分は重要な役割を担っている」

と思っていた中学の部活動での出来事。

自分の行動のせいで、部が崩壊しかけたのであります。

その時にNo1ネガティブはしっかりと、刻み込まれてしまったようであります。

さらには、高校の部活でもこのネガティブを強化してしまう状況があったような。。

このNo1が自分にとっていかに大きな影響を与えてきたのかは、試しに

「No1ポジティブ」

を調べてみたときにはっきりしました。

それは

「自分のスキルは必要とされている」

だったのであります。

自分という存在が必要とされていないなら、スキルで必要とされるしかない

という思いの中で、これまでスキルを磨いてきたということであります。

自分のことながら、正直言ってすごく滑稽です。

そんな目的のために取り組んできたのが自分の人生なのか。

そしてそれだけじゃない。

スキルを重んじることはつまり、能力主義ということなんであります。

能力のない奴は価値なし、であります。

その認識がやさしさの欠如にもつながっている。

それがワタクシという人間でありました。

考えれば考えるほど、無駄なことに時間を費やしてきたように思える。

でも、悪いことばかりでもない、と思い直す。

このネガティブのおかげで、本来ならできない努力もしてこれたかもしれない。

No1ネガティブへの理解は、生き方を変える力を持っているように思う。

たぶんワタクシの生き方は、変わっていくのでありましょう。

それで、気功教室のみんなにも、No1ネガティブを探してもらった。

ワタクシの便利な検査で、言葉にしなくても、心の中に思い描いている事柄がどのくらいのネガティブなのか分かるのであります。

やはり、No1ネガティブが自分で分かっている人は少ないようであります。

どんな人にとっても、No1ネガティブを探すことには大きな価値があるでしょう。

ネガティブの正体が分かればそれだけで、その影響力はすごい速さで小さくなってしまうようであります。

教室では、お互いに自分のネガティブを言い合うワークはしませんでした。

「自分を変えたい」という思いが強くなっている人が取り組めるワーク。

他人に自分のネガティブは明かしたくない、という人には向かないでしょう。

でもネガティブは幻のようなものです。

誰かに言ってしまったら楽になります。

そんな機会がみなさんに訪れるよう願っています。

セミナーでは、もちろん瞑想もやりました。

でも特別なものではありませんでした。

あと、「OSHOカード」というものを1人1枚選んで、その意味を先生に聞きました。

そのあたりのことや、記事の出だしで書いた

「新しい展開」

については、次回にでも。

気が変わらなければ。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

形がないものを相手に

とうとう夏が終わりかけてきたような今日このごろ。

確認してみると、なんと1か月も記事を投稿していませんでした。

もちろん最近も色々なことが起きてきています。

ただその内容がなんとなく記事にしにくいし、多くの人にとっておそらく「つまんない」。

加えてあまりにも妄想的。

その理由。

それは、目に見えないもの、あるのかないのか分からないものに対して、「ある」という事を前提に、調べて評価する作業だからであります。

例えば肉体が元気かどうかを調べようとする場合。

ワタクシの場合ならとりあえず、頭の中の水(髄液)が上手く流れているのかどうかを観てみる。

なかなか役に立つ検査でありますし、実際に存在して流れているものだから、そこに疑問は生じにくい。

「本当に分かっているのか?」

くらいの常識的な不安はあるとしても、感覚がかなり明確なので「良し」とする。

だけれども、通常の手法で歯が立たない患者さんを「どうにかして」改善したいという状況になると、これまでに調べたことのないような、新たな「判断材料」を探し始める。

するととたんに「いたしかたなし」な検査対象と評価、一歩間違えれば「妄想」となる。

それでも

ワタクシの頭の中で。

そして、霊的な領域へのアプローチの中で。

妄想は症状の改善という形で

「ただの妄想ではない」

と主張するのであります。

その概要。

ある人の全部の領域を含んだエネルギーの球を想像する。

それは生命をイメージ化したもの。

通常はエネルギーそのものなので、その量を数値化できる。

これまでも「生命力」というのを数値化して利用してきたのでありますが、これまでよりも、「肉体のエネルギー以外のエネルギー」に重きを置いている。

そしてそのエネルギーが肉体内に湧き出す泉。

この泉に不調がなければ、エネルギーの量に見合った度合いで
体内にエネルギーが湧き出している。

エネルギーの量を数値化できて、泉からも適切な湧き出しがあるなら、言ってみれば簡単な症状であります。

適切に肉体面への整体を施せばスムーズに回復。

交通事故での深刻なダメージなどでも意外に順調に改善できるようであります。

でもエネルギーが数値化できない場合。

精神面あるいは霊的領域へのアプローチなしでは解決にはまず至らない。

その場で症状が軽くなるなどの効果が出ても、本質的な改善は得られないのであります。

もちろん精神面あるいは霊的領域にどの程度のトラブルが起きているかによって体の反応はかなり違ってくる。

深刻な場合、日常生活に大きな支障が出ているか、ほとんど活動できない状態になってしまうようでありまして、そのような状態に苦しむ人はすごくたくさんおられるようであります。

とても驚いたのは、うちの患者さんでスムーズに解決していかないほとんど全員がエネルギーの全体量を数値化できなかったこと。

そしてその半数が、霊的な存在の介入によって回復を邪魔されているということであります。

そんなにも霊的な問題がありふれていたとは信じがたい。

でもそれが正しいようであります。

人が霊的な問題で不調になることは、当然あると思っていました。

同時に、霊的に問題をとらえる人は常に霊的に考える、とも思っている。

だから実際にはそんなケースはとても少ないのでは、と。

この話はもちろん、症状を相手に仕事をしているあらゆるタイプの施術者、セラピスト、医療人にも当てはまる。

例えば骨盤の歪みを診て判断する人は常に歪みとか骨格しかみていない。

全部の症状は骨格に原因がある、という。

鍼灸師は臓器やエネルギーの問題という。

リンパマッサージの人はリンパの停滞という。

筋肉へのアプローチの人は筋肉が硬いからという。

でもどれも、言っていることが正しい場合はありますね。

その割合はたぶん、低いけど。

それと比較すると、ある程度の難しい症状を抱えた患者さんの場合において、霊的な問題が原因という割合はずっと高い、かもしれない。

じゃあ霊能者にみてもらえばとは、特定の能力者をのぞくとワタクシはあまり思わない。

なぜなら。

霊的な問題がほとんどの場合、精神面の問題と関わっていると感じるからであります。

でありますから、精神面と霊的な問題の両方を解決していく必要あり。

もちろん「言うは易し」。

でもうまくできれば、エネルギーが数値化できるようになる。

たいていの場合、元気な人よりかなり低い数値。

数値が上がるまでに、しばらくの期間がかかりそう。

でも回復していく準備は完了。

あと、泉。

これがまた不思議な機能。

肉体面への湧き出し口だから、当然骨格や中枢神経の状態にも左右される。

でも一度完全に閉じると、いくら肉体面をケアしても働き出さない。

言ってみれば、エネルギーでできている「吹き出し口」を直接エネルギー的に
ケアしないと元に戻らない。

この泉の場所は5箇所だけど、エネルギーにはかなり敏感なワタクシでも、きっちりした位置を探し出すのには少し苦労する。

でもって、意識をかなり深くまで沈めて、ワタクシの扱える上限に近い繊細なエネルギーでケアすれば完了。

ようやくそこから、肉体面へのアプローチ。

上記の操作をした患者さんの場合、肉体面へのケアはさほどでてこない。

それはおそらく、上記操作で十分にインパクトがあるので、患者さんの体がそれ以上を要求してこないからであります。

と、ここまでが

「妄想」

のような話。

でも記事投稿後数日で、違う展開が16日に起きた。

だから書き換えている。

確かに霊的領域へのアプローチは効果がある。

でも、他の手法でもその領域に働きかけることができる、かも。

もしそうなら、神様仏様の出番は激減してしまうかも。

おぉ、急に元気がでてきた。

意味不明より、意味明確のほうがやっぱりワタクシはよいのであります。

さて次回は、先日行った瞑想のセミナーで得たものについて
書こうかなと思います。

記憶が新しいうちに書くつもり。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

足掻く者

先日、半年に一度の「気功教室の飲み会」をしました。

一緒に話す人数が多くなれば、二人で話していても出てこない人柄の一面がはっきりとでてきたりする、と感じます。

そんなときにも、どんな風に振舞うのか、「いつものやり方」というのがありますね。

「いつもの」とはつまり、慣れたやり方、無難な振舞であります。

もちろんそれでいいでしょう。

でも、自分自身を「変える」のを目的とするなら、やったことのない振舞いをしてみるべきでは、と思います。

でありますから今回は、

1 あまり話をしない人にはもっと話すように
2 話をしすぎる人には話を控えるように
3 どちらでもない人にはあまり話をしない人に話を振るように

言ってから会をスタート。

誰が1~3のどこに属するのかも調べたので、みんなに伝えておきました。

考えてみれば酷い飲み会であります。

単なる実験?

それでも結構うまくいったのでしょうか、3時間経ってもだれも帰りたそうな素振りなし。

ワタクシ自身は話をしない人が気になる性分で、特に教室の飲み会だと自分がしゃべりすぎなので2の分類ですが、酔ってきたら結局しゃべってしまったので意味がなかったようであります。

終わった後に聞いてみると、分類1の人でやっぱりあまりしゃべれなかったという人がいました。

個人的な見解ですが、どんな人も多く話した方が満足する、と思います。

でも、なにかが邪魔して話せない。

ワタクシのように話しすぎる人は、ある種の病の様に話し続ける。

そして3に該当する人でも、話せる内容に偏りがあるかも。

いつも話さないような内容こそ、話したくないような内容にこそ、話す「意義」があるかもしれません。

さてワタクシがいたテーブルでは

「本当にやりたい事はなにか」

について話していました。

自分自身を知ることは、意外にむつかしい。

一見明らかな目標がある人でも、その目標に向かっての取り組みが上手く進められないことがあります。

頭では分かっていても、行動が伴わない。

それがなぜなのか、飲み会の後に調べてみました。

教室のメンバーについて、心理の深い部分で

「足掻いているのかいないのか」

をみてみる。

ここでの「足掻く」の意味は心理面の苦痛というより、現状を変化させたいという欲求があるかどうか、強いのかどうかのことであります。

この「足掻き」がなければ行動を起こすための「原動力」がないので、自分自身の取り組みで理想とする状況へと近づくことは、おそらく不可能。

心理の深いところで現状に満足、あるいは受け入れているのであります。

それなのに世間の常識とか周りの人たちの意見もあって、現状でよしとは思えない場合もあるでしょう。

うちの教室では、人生ですでに一定以上の成功や満足を得ている人が多いようで、強く足掻いている人は少数のようでありました。

足掻いているのなら、どこかに進んでいくでしょう。

ワタクシの場合は、今得ているスキルなどには十分満足しているのでありますが、まだ足掻いているようであります。

でも、どこに向かおうとしているのかが自分でも分からない。

分からないけど、現状はなにかが「しっくりこない」。

でありますから、まだ瞑想のセミナーに行ったり、研修で海外にも行ってみようと算段しているのだと思われます。

「足掻き」とそれによって喚起される行動。

それだけが目標や理想像に近づけるか否かを決める要素?

それを「あっちの人」に聞いてみると

「NO」

という反応。

それ以外に働いている力。

それはつまり

「天意」

なのだとか。

なにかに導かれるように進んでいく状況。

教室のメンバーにも天意に導かれている人が1人おられるようで、それにはビックリですが、あ~、あの人ならそうかも~。

本来足掻かないといけない人が、心理の深いところで足掻いていない場合、どうしたらいいのかという質問がありました。

どうでしょうか、何かの心理ブロックが「足掻き」出現を妨げているケースはあるかも。

それならばブロックをケアすることで足掻きだすように思われる。

が、かなりレアなケースのよう。

それよりも、足掻いていない人の現実世界の状況がかわることで足掻きだす、というのがよくあるストーリーだとか。

急に「天意」が働きだすこともあるかもしれない。

ワタクシが「足掻いていない」と言った教室のメンバーで、

「そんなことないです」

と否定した人は結構おられました。

私だって足掻いているんです、と。

まぁワタクシの感覚なのであるいはそうかもしれませんが、足掻いていることに対してリアルな行動を起こしているのかどうか。

起こしていないのなら、足掻きの度合いはさほどでもないのでしょう。

「足掻き」が強いのなら、行動を起こさざるを得ない、行動は必然的に起きてくるものだからであります。

でも「足掻いていない」ことは幸せなことではないでしょうか。

現状を深層心理で受け入れている。

日常を静かに過ごしている。

それは神の祝福?

足掻く人には、激しい取り組みを。

そうでない人には、静かな毎日を。

ということで、今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

パワーの人

ワタクシの施術を受けに来てくれる人で、整体とかヒーリングとかスピりチュアルなどの業界人ではないにもかかわらず、不思議な感性を持っている人がいます。

人呼んで「マダムN」

彼女はこれまで、数々の能力者、腕利きの施術者の力を借りつつ、人生の荒波を生き抜いてきたのだとか。

そんな彼女がワタクシの所へやってきているのには、もちろん理由があります。

彼女は単に能力者のエネルギーの質や力量を見抜くだけでなく、その「得意分野」を的確に感じ取れるようであります。

今の彼女が抱える問題に対し、ワタクシの施術スタイルは相性がいい。

でありますから、希少能力者でも有名でもないワタクシの所に彼女はやってきているのであります。

そんなマダムは、何らかの能力者や施術者を

「パワーの人」

と表現します。

曰く

「ダメなのか良いのかはすぐに分かる。全然ダメとかね」

だそうであります。

先日、そんなマダムの帰り際、次の施術順で待合にいた「患者さん」を一瞥して

「パワーの人?」

と聞かれたのであります。

一瞬で何を感じられたのか、とても興味深い。

何のパワーも持たない人を見て、そんな言葉がマダムの口からでてくるはずがないのであります。

さてマダムに「パワーの人」との認定を受けたのはどんな人物なのか。

この人物「セラピストM」については、ワタクシも不思議を感じる存在であります。

彼女は「能力」においてはまだ発展途上で、持っているポテンシャルを考えれば3分の1くらいしか開花していない段階。

であるにもかかわらず、なにかの魅力をもっている。

なにかしら

「キラキラしたもの」

を感じる。

だけれども神仏や霊的存在との強い関りも、調べてみたところなし。

そんな人物であります。

今回マダムの評価を得て、ワタクシは

「やっぱり何かを持っている」

と確信しました。

その「何か」の正体を、もっと調べてみる気になったのであります。

とはいえ、何を調べればいいのやら。

これまでにも結構調べてみてはいたところなのであります。

そんな折、少し前の記事にでてきた、

「ワタクシをソウルメイトと当てた人」

から、出かけたお土産にお守りを買ったので、渡す前に画像を送ります、とのメッセージが。

見てみると、いきなり何かと「繋がった」と直感。

そして

「ぐぐっっ」

と体の中にまで押し入ってくるようなかなり強い感覚。

これは、これまで関わってきた神様とか霊的存在が、関りの度合いを上げてくるときの感覚とはかなり違うような。

ひょっとして悪い存在?魔物?

はっきりした感覚のため、やばいのかしらとも思って入ってきた物が何かを調べてみる。

するとなんと、調べられない。

調べられる領域を超えた存在のようであります。

そんな霊的存在が今までにいたかどうか。

おそらく、調べられないような高度な存在であれば感知もできないので、居ても気づくことすら不可能。

なのに今回は感じている?

どうにかして調べる方法はないのかといえば、「ある」というのが最近のワタクシなのであります。

普段の意識状態でダメなら、まず自分の行ける最も深い意識状態になって維持し、その上で調べれば、普段より広い範囲のことが判別できるという、単純なカラクリ。

少し前までは「意識最深度キープ君」の力を借りてやっていた作業を、キープ君なしでもできるようになっている。

最も深い意識状態にもっていくまでに2分くらいかかっていたので、結構面倒くさいし集中しなきゃいけないし気が進まない操作であります。

余談でありますが、こういう時の「意識の集中」とは、一般の人がやったことがない種類の集中であります。

「どこにも意識の焦点をつくらないことに集中する」こと。

さて調べてみると、この新たな霊的来訪者とワタクシの関りがまだ開発途中だそうで、意図して自分の中に招き入れる作業を繰り返すのが良い、という反応。

その作業を何度もやっているうちに、「ぐぐっ」とかなしに、スムーズに中にまで入ってくる、中にまで繋がった状態になった様子。

この状態はこれまでの霊的存在との関りでは感じたことがない感触。

これまでは自分という存在の表面に霊的存在との繋がりが、イメージとしては「パイプが繋がった」ようにできる感じ。

今回のは、もっと自分の中心と繋がったような感覚。

なるほどこういう関わり方もあるのか、と知ったのであります。

関わり方の違いが調べられなかった理由なのでありましょうか。

と、そこで「セラピストM」についてピンときたというわけ。

彼女もこういう形で霊的な存在と繋がりを持っているかもしれない。

調べてみると、やはりそうだったのであります。

「きらきらしたもの」の正体は霊的存在とのすごく深い関りの可能性が高い。

もちろん、他の要素によるものかもしれない。

なにしろ彼女の行動原理は、一般人とは違うように見受けられる。

でもま、一応の結論として腑に落ちているワタクシであります。

とまぁ、ここまでは良かったのでありますが・・。

このあとの新たな人物登場により、霊的存在と人とのかかわりについて、すごく混乱しているワタクシであります。

誰の言っていることが正解なのかが分からない世界。

ワタクシは施術の人間ですし、体や精神の問題が解決すればそれでいいし、どんなに意義深げなものでも、効果なければ「意味なし」のスタンスです。

そこに立ち返ろうと思った次第であります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!