「整骨院からのあれこれ」カテゴリーアーカイブ

憂鬱の中、歓喜

「ワタクシの施術には優しさがない」

それが最初の「気づき」。

どうしてそんなものが、否定できない確かさをもって、自分の中から湧きあがってきたのか。

それは今も、分からないのであります。

理解を超えたそんな体験を得たのは、例によって、代表TARIKAの率いるタオイストジャパンの合宿セミナーでのことであります。

7月半ばから原因不明の「やる気が出ない」状態が続いていたので、このままではまずいと思って参加を決めた、とことん自分と向き合うためのコース。

申し込んだあと原因が分かって、やる気は回復していたのですが、せっかくなので参加させてもらったのであります。

あのときのワタクシは確かに、普通じゃなかった。

二人組になって行うワークで、3回連続で相手から「ダメ」の判定。

しかもそれは、ワタクシの仕事に直接関わる内容のワークで、であります。

3回目の「ダメ」のあと、ワタクシの心理は、軽いパニックを起こしているようでありました。

一体自分は、何をやっているのか。

自分がやろうとしていることは、意味不明なものになってしまっている。

そう判断して、そのワークを一時、中断させてもらったのであります。

2分程度待って、冷静になったつもりでワークを再開してしばらくしてから、いきなり湧いてきたのが、この記事冒頭の「気づき」。

この出来事はでも、一つのワークから引き起こされたものではなかったと、今は思うのであります。

この日は合宿2日目。

初日は午後からスタートしたこのコースで、これまでにいくつものワークをこなしてきている。

様々なワークに取り組んで、すでに意識が揺さぶられてグラグラしていたからこそ得られた体験であります。

そういう意味で、普段の瞑想などで得られなかった「気づき」がおきたのは、偶然ではないのであります。

それにしてもひどい内容の「気づき」であります。

施術者にとって最も大切なことができていない、なんて。

そのことに打ちのめされながらも、コースは続いていく。

ワークをして、感想をみんなでシェアする。

深い思いを吐露する人もでてくる。

ワタクシも感じたことをそのまま話す。

みんなの前で話すことで、ワークで感じ取ったことがすごい速さで消化されて、次のワークへの布石となるかのようだった。

それが繰り返されていくと、徐々に全員の意識が繋がっていって、深まっていって、何かがいつもと違う様相になっていくようだ。

だけれども、その渦中にいれば、そのことにまったく気が付いていない。

そして3日目の朝、激しいワークをしている最中に、最初の気づきを踏み台にして出てきたのは、

「自分が何者なのかを誇示せずにはいられない」

というもの。

そしてそれは、どんな時でも、衝動的に、制御できない強さで、自分を支配している。

例えばこの合宿においても、

「単なる参加者A」

でいることは、ワタクシの中の衝動が許さない。

ワタクシの中の何かを誇示しなければいけない。

施術に優しさがないことも、これならば納得であります。

なぜなら施術において、自分のスキルや能力を誇示しなければいけないから。

優しさをもって触れるようなゆとりは、皆無であります。

なにかにつけて、一歩前にでること。

それはワタクシの個性であり、長所でもあると思っていました。

男のワタクシは、そのことで批判を受けた記憶もおそらくないのであります。

でも。

制御できないものは、

自分に過剰な負担を強いる。

他の行動を選択できなくする

本当の自分を感じることから遠ざける。

そして。

この人生での自分の可能性を、奪う。

ワタクシという存在のあまりに近くにずっとあって、これまで気が付かずにいた衝動。

それが分かって、合宿から帰ってきた後も、ずっとこのことを考えていたのであります。

完全に消化できるまで、ワタクシの中の動揺はおさまらない。

そのあと、合宿の仲間とZOOMで話していると、その仲間はこの衝動について違う角度から捉えて言ったのであります。

「そのやり方でしか、人と繋がれないんだよね」

・・・

ま、まぁ、そうやね。その通りや。

それを否定できる材料は、ない。

同じことについて理解するにしても、見る方向によって、景色は変わる。

あぁ、それにしても、なんてことだろう。

下品で軽薄な、ワタクシが最も嫌いな人物像。

それがワタクシであります。

それに気が付いて、自分の全部が止まったかのようだった。

自分自身のことは意外に分からない、と言ったりする。

でも心のどこかでは、うっすらと、分かっている。

表面の思考でのみ、分かっている。

衝動は、自分の奥深くからやってくる。

それを表面から見ても、大事なところが分からない。

自分が何かに支配されているとは感じない。

支配力が自分の行動を制限したり無理強いしていることに気づかない。

初めから1つしか選択肢がないのに、あたかも自分の意思で決断したように思っている。

「気づき」とは、衝撃的なもの。

奥深くで、言語を介さずに、感じることであります。

別の仲間が言ってくれた。

「本当の気づきって結構、かっこ悪いもんだよね」

もし他の人もそうなら、ワタクシは少し、自分を慰められる、かも。

さてワタクシはこれから、内なる衝動と向き合って、少なくとも制御可能な状態にしていくことを最優先に生きることになるでしょう。

自分ではうまく生きてきたつもりでしたが、錯覚でありました。

落ち込みつつも、清々しい気分であります。

もちろんそれは、自分の深い問題がはっきり分かったことへの気分、喜びであります。

今回ワタクシが参加したのは

「サンクチュアリ」

というコースであります。

このコースの内容については、具体的な描写はしないことになっているので、知りたい人はどうぞ覚悟をもって、参加してみてください。

みなさんにも、いつかどこかで、大きな気づきが起きるよう願っています。

ということで、久しぶりの記事でありました。

今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、宇宙開闢の力殿!

赤い糸

グキッと来た。

ぎっくり腰。

もちろんワタクシにであります。

ずいぶんたくさんの、ぎっくり腰患者さんのケアをしてきたわたくしでありますから、この症状については結構理解しているつもりでありました。

ワタクシの場合は原因が小腸へのウイルス感染で、それならば仕方なしであります。

だけれども。

さっきまで何事もなく動かせていた体が、まっすぐに伸ばせない。

なんとか患者さんへの施術を終えて、休み時間に治療開始。

いつも患者さんにやっているような内容で、体の要求どおりにケアしていたワタクシでありますが、

「そういうことなのか?」

という疑問が湧いて来るのであります。

一瞬で異常な状態になった体であります。

それなのに、あっちもこっちも調整して、それでも劇的な効果はでていない現実。

「的を得ていない」

と思うのが、自然な反応。

感覚的にはどこかの関節が瞬間的に滑って、つまり捻挫して、起きているような症状。

でもどこの関節を調整しても、思ったような成果が得られない。

どこがどうおかしくなっているのかの、全体像がつかめない。

実のところこれまで何度となく試みてきた

「全体像の把握」。

でも今回は、「やっぱり分からない」の堂々巡りから脱却できたのであります。

ぎっくり腰のメカニズムは、いってみれば、以前に積もった雪と新しく降った雪との間で起きる「なだれ」のようなものであります。

例えば腰・お腹の皮膚に近いあたりを構成している筋肉や骨格の層と、内側の腹膜などを構成している層のあいだで、瞬間的に

「ズルッッ」

となっちゃったということなのであります。

でありますから、その現象を理解せず、個別の関節や臓器の不調をいくらケアしても、限定的な効果にとどまる、ということだったのであります。

さてこの現象にも、当然原因というものがあります。

それは

「エネルギーの通り道がつまった」

からであるようです。

この通り道。

当然経絡のような、表面的な流れではありません。

それがどこなのか。

例えば頭蓋骨なら8ヵ所以上あるように感じますが、それを感覚的に捉えることは、なかなか難易度が高い。

というか、おそらくかなり…。

でもこれが分かって、ワタクシの整体手法がすごく変化しました。

難病やがんの患者さんが治っていくことも、ごく当たり前になるような気がします。

不思議なくらい前に進むのが早い、今日この頃のワタクシであります。

「成長の裏に能力者あり」

それがワタクシのパターンであります。

誰かに会って何かを意識する。

すると起こる、何らかのブレイクスルー。

今回の能力者殿は、大した御仁であります。

まだお会いしていない能力者殿、お待ちしております。

さて今日は

「赤い糸」

の話。

赤い糸って、つまりはあの、赤い糸であります。

結構以前からワタクシが調べている、まさにスピリチュアルな縁、もしくは力であります。

赤い糸を持っている人はおそらく2~3%。

それは生来のものと推測されますが、特定の人と出会うまでは誰とも繋がってはいません。

出会った瞬間

「キュッ」

と結びつくようでありますね。

誰とつながるのかという点に、複数の可能性があるのかは不明。

でも一度そうなったら、二人の縁が切れることは決してないように見受けられます。

ただ、必ずしも夫婦になるとは決まっていないよう。

赤い糸の相手と付き合っていながら、別の人と結婚した人。

夫婦だったけど別れた人。

既婚者になってから、赤い糸の相手と出会った人など。

それでも完全に縁が切れることはないらしい。

ただ、これらの人の「糸の強度」を調べると、最大値を3とした場合、みんな1未満でありました。

1以上であれば、死別するまで夫婦、が既定路線。

みなさんからお聞きしたエピソードは、まさにドラマの中の世界。

その力は強大であります。

まだ誰とも繋がっていない人の場合。

特定の人と出会った瞬間、

「結婚運」

が上昇するのがわかります。

ですから、糸を持っていてまだ繋がっていない人を見つけると、いつ出会いが来るのか、すごく楽しみであります。

先日はまだ3才くらいの子に糸を見つけました。

その子の糸の強度は、ほぼ3。

これまでの最高値は2.2だったのでびっくり。

それは一体、どんな結びつきなのか。

ですがやはり、それだけじゃあ、ない。

生まれつき持っている霊的エネルギーの量がすさまじい。

その子がどんな人になっていくのか、見届けたい。

ワタクシの周りには糸を持っている人がたくさんおられるのですが、本来は持っている人が少ない縁なので、持っていないと知ってがっかりしないようにしましょう!

そんな過去世の遺産に頼らなくても、イキイキしていれば良いご縁がやってくる、と思います。

ということで今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

やむを得ず

今の季節。

ワタクシの治療院に来られている人のほとんど全員の体調が低下。

特に顕著なのは、うまく循環させられなくなったエネルギーが「どこか」にたまってしまう、いわゆる「気滞」の状況が多くの人にみられること。

普段ほとんど鍼を使わないワタクシもこの状況にだけはこのツールが最善だと認識。

といっても使うのは刺さない鍼、「てい鍼(しん」。

刺さないから当然、痛くない。

ワタクシは「刺す」行為が好きになれなかった鍼灸師。

だからてい鍼を使うのであります。

用法は通常の鍼より難しい。

鍼をあてる位置が1mmずれるとほとんど効果がない。

でもそこは、気の感覚。

それがあれば、失敗することが逆に不可能。

超便利、かつ強力な機能、それが気の感覚。

ワタクシも昔は、鍼灸術の難しさにあえいでおりました。

どこに鍼を打つべきか?

どう打つべきか?深さ、角度、補瀉(エネルギーを入れるのか抜くのか)。

どこで施術を終えるべきか?

全部に確信がない。

施術が失敗した時だけでなく成功した時でも不安が残る。

暗闇を手探りで進んでいるような気分。

でありますから、気功を学んできて良かった、と心底思うのであります。

どのツボを使うのかなんて、見ればほぼ分かる。

自分がそんな人間になるとは、想像もしなかったワタクシであります。

話は戻りますが、先ほどの「気滞」。

自分でケアするには運動が一番簡単。

運動して、エネルギーと体液がぐるぐる回ればそれだけでかなり解消なので、おススメです。

「気滞」以外になぜかよく遭遇するようになったのは、

「動物の霊」

というか、お化け?

患者さんに憑いていたものを引きはがしたときに、ワタクシにのっかってくるパターンだけかと思っていたら、先日はお寺の前を歩いていただけでいきなりひっつかれたのでびっくり。

こいつにひっつかれると、感覚的な検査がほとんどできなくなる。

いわゆる、チャネリング的操作が無効。

でもいろいろと試していると、地球のエネルギーだけはなぜか検査と癒しに使えることが判明。

かろうじて、だけど。

動物だから地に還りたいんだな、と解釈。

地球のエネルギーを呼び込みつつ、ひっついたお化けが動きたいようにさせてあげると、徐々に消えていくらしい。

海の生き物の場合は海のエネルギー。

海に還るのだろうか。

動物には、仏様や神様の力はさほど効果的ではないようだ。

なので、結構やっかいな奴らであります。

夏になるとお化けが増えるというのは、本当なんでありましょうか。

ワタクシ以外の術者が、このお化けにどうやって対応しているのか興味大。

さてワタクシの気功教室。

今、入れ替わりの時期にきています。

自分で練習できない人は、教室への参加を待っている人に席を譲るよう促しているのが一つの要因。

でありますから、入れ替わりは結構なことであります。

それでも、長い間来てくれていたメンバーが去ることには、思いもよらない憂鬱さを感じるワタクシであります。

取り組みを最後までやり通せなくて、自信を失わせただけのようにも思われる。

でも、仕方がないのであります。

「気の感覚と深い意識」で自分の可能性を引き出して欲しい、というのがワタクシの願い。

それにはそれなりの熱量を注ぎ込む必要がある。

それができるのは、教室の練習メニューが受け入れ可能な精神性だけでなく、気功に取り組む理由を、「魂的」に持っている人だけであります。

今回の人生でやるべきことは、人により違うでしょう。

去っていく人にも、次の何かに挑んでもらいたいと勝手ながら思います。

教室をはじめてから、早いもので3年以上経ちました。

ここからの一年で、ワタクシが「1つのゴール」と考えている地点までたどり着く人がでてくるような気がします。

ワタクシが20年かかった道のりを4年で、ということであります。

その時教室に、一体何が起こるのか。

それを楽しみにしています。

到達地点に何人を導けるか。

それがワタクシの、道の一つであります。

でも、これまでのスタイルの教室には、今回入るメンバーで最後にする予定。

なにしろワタクシは、ヒジョーに飽き性でございますのでそれも、やむを得ず、であります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、八卦の力殿!

領域のはざま

疲れる。

とにかく疲れるのであります。

それは「忙しさ」からくる単なる「疲れ」ではなく、およそ3カ月に一度くらいやってくる、

「施術対象の変化」

による現象。

これが起きると、うちの治療院は少しの間、暇になる。

変化の内容は、今までより深いエネルギーを感知して対処するということ。

ワタクシは解剖学に基づいた整体をやってきているので、肉体の色々な組織のダメージ、とりわけ骨のダメージには大きな関心を持っています。

なんだかんだ言っても、骨自体のダメージを抜かないことには効果ないっしょ、であります。

骨状態の影響力は非常に大きい。

例えば膝が痛い人の関節をケアしても、関節を構成する骨が異常なら、その成果は一時的なものにとどまる。

内臓や脳も、その外側に位置している骨が異常なら、その影響を強く受ける。

骨の異常とは骨折だけでなく、骨の中に流れるエネルギーの寸断や骨膜や骨髄のトラブル。

これらを改善することで、本当の改善が得られることが多い。

重要視してきたのはそういう理由からであります。

人の体とはすごく複雑なものであります。

精神とか潜在意識、加えて霊的な要素で治っていかないケースが少なくない。

でも、それらの「肉体以外」の要素からでなく、どうみても「肉体の局所的トラブル」なのに改善しないケースもある。

その原因を探してきたのでありますが、その原因は、見つかるわけがなかったのであります。

なぜなら、その原因となっている「エネルギー」が非常に、感じとりにくいから。

言い換えれば、深い深いエネルギー。

臓器や脳膜などの状態をほとんど見ただけで判断できるワタクシでも、通常の意識状態ではまったく感じ取れない。

瞑想しているときにような、意識を深くして自分の感知力を最大限にしてやっと見つけられるような、ささやかな存在。

でもそれが改善を阻んでいる。

それが残っている限り、骨のケアをして改善したようにみえても、時間がたてば悪い状態に戻ってしまう。

その「深いエネルギーの問題」が、骨などの構造や構造に伴ったエネルギーの異常を引き起こしていることがある、ということなのであります。

その「深いエネルギー」は構造に依存していないので探し出しにくいことに加え、ケアしたときに自分にかかる

「負荷」

がすごく重い。

この負荷にまだ慣れていないので、それで疲れているという訳なのであります。

さて、こういった「新しい展開」は定期的にやってきており、その変化に対応できると、スキルアップとともに手に入るのは、一段上の意識の深さや新たなルートの開通。

それらを副次的な目的として、この千本ノック的訓練に望んでいるところであります。

仕事をこなしつつの訓練。

ありがたし。

そんな日々の中、少し前につながった

「いま」

のエネルギーとのかかわりも、予想外の進歩をみせている。

最初、胴体を上下に貫く「中脈」と並走してやや背中側に入ってきたこのエネルギーの流れは、しばらくすると股のあたりでUターンして中脈前後に1本づつの状態に、さらには3本に増加。

そのあといくつかの状態を経て、今では未完成ながら自分を包む球体のようになってきているのであります。

その段階になってようやく分かったことは、このエネルギーは外からやってきているわけではなく、自分の領域とその外との間、つまり境界面から発しているらしい、ということ。

この話を視覚的にとらえないのであれば、自分のエネルギーと外のエネルギーの共鳴から生じるエネルギーといえるのかもしれない。

そんなエネルギーがあったんだ、とビックリ。

でもってさらに調べると

「愛」

も同じような性質のエネルギーのよう。

であるならば、

「他にもそんなエネルギーがあるのかね?」

とあっちの人にきいてみる。

すると

「YES」

の反応。

1つある、とのこと。

それがどんなものなのか、なかなか難しい問いであります。

残り一つのエネルギー。

それを活用している人はいるのかと聞くと、いる、らしい。

誰かしら~、としらべていると、該当者は以前記事に書いた

「自由な人」

でありました。

なるほどぉ~、そんな気がするー、でありますよ。

で、それはどんなエネルギーなのかというと、

「あるがまま」

に近いニュアンス。

言葉的に一番近いのは

「そのまま」

でありました。

人としての、余計なものを一切取り除いた、「そのまま」が発するパワー。

確かにあの人はそうでありました。

あー、あの人に会いたいなー、と思い出しました。

みなさんの中にも、あの人に会えばそう思う人が少なくないだろうな、と思うワタクシであります。

ということで、「いま」「愛」「そのまま」の三位一体。

ワタクシの心の中の先生、ラマナ・マハルシ殿は全部のパワーが最大のようであります。

いつも意識していたからか、この御仁のエネルギーは神々と同様、外からワタクシの中に強くつながっていると感じます。

ゴータマさんと同レベルの完全覚醒者は、この御仁を含めて歴史上4人くらいしかいないとのあっちの人の意見。

なるほどそのパワーが神と同等なのも、わかるような気がするのであります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマの神殿!

感情の引き金

今朝起きると、聞きたくないニュースが飛び込んできた。

時の人、大谷さんの通訳を担う人物の事件。

詳細は知らないし、知りたくない。

単に思うのは、彼の置かれた特殊と言っていい状況が、彼の中の「何か」をおかしくしたのかも、ということ。

だれよりも身近な人を裏切ることになった悲劇。

一つの過ちが、彼の人生を破壊する。

でもそんなことは、誰にでも起きうるとワタクシは思うのであります。

物事に対して頭で理性的に、理論的に考えるよりも、瞬間的に湧き上がる感情の力が勝ることは少なくない。

感情のエネルギーを理屈で抑え込むことはなかなか困難であります。

理屈で考えて、自分自身を何度も納得させても、また同じ感情がやってくる。

それは感情のエネルギーが、意識の深いところにある記憶や認識により、なにかの拍子に反射的に引き起こされるから。

手で触れたものが熱かったときに

「熱っっ!!」

と決まって手をひっこめるのと同じように、反射的に。

この反射が重要なのは、反射により本人が

「なにを感じるのか」

が人により違うところ。

例えば今回の事件。

聞いて、自分が被害に遭ったわけでもないのに「怒る」のは普通、かもしれない。

でもおそらく、理想的ではない。

潜在意識がクリーンな人なら

「裏切られた大谷さんが可哀そう」

とか

「あの人、大変なことをしちゃったね」

くらいに、感じるような気がする。

怒りやネガティブな感情は、多くは親子間で、そして先祖代々受け継がれているかもしれない。

今の日本では、怒りや不安がまん延しているように感じる。

ワタクシにも怒りがまん延している。

どうでもいいようなことにさえ怒りを感じるのであります。

でも意識が深くなるにつれ、自分のそんな反応に、違和感がどんどん強くなっている。

ネガティブな感情が湧いてきたら、自分の中を調べる。

自分の中が、たんなる出来事をいらだちの原因に仕立てている。

それに気が付いたら、生き方が変わる。

意識を向ける方向が逆になる。

外から中へ。

そうなれば、どんな状況からでも人生を好転させられる、そう信じるワタクシであります。

やー、楽しくない記事であります。

話題はスピリチュアルなものにスイッチ。

ある人が言うには、昨日は

「宇宙のお正月」

だったそう。

それも通常よりもっと、大きな転換がおきるタイミングなんだとか。

ワタクシはそういうエネルギーの変化に、ひじょーに「うとい」。

何が変わったのか、全然分からない。

でも。

久しぶりに父の山登りに同行して、修験道のその山で、不動明王様にお参りしたときのことであります。

不動明王様の像を目の前にして、どうもしっくりこない。

ここじゃあない、とは以前も感じたことだけど、今回は放置できない感覚。

そういえば今回は、天候の悪さと遅い時間帯だったことで、付近に誰もいない。

誰もいないから、淡いエネルギーがよく分かる。

あっちの方か、と少し移動。

すぐそばだけど、行ったことのない辺り。

そこに

「鎮宅さん」

という祠。

なぜかそこに、不動明王様の強い感覚。

「こっちでありましたか」

ということで、何とも言えない満足感。

この出来事も、宇宙のお正月のせいなのでありましょうか。

ワタクシは基本的に、自分の感覚を重んじます。

感じないことは、否定しないまでもさほど意識しない。

でも、感じられたら面白いだろうとも。

面白いこと、そう、「うたげ」がもうすぐやってくる。

その集まりには、意識の深い人がごろごろいる。

意識の深い人に会うと、独特な感覚になる。

相手と自分の距離がなくなったような感じ。

たぶん、深い部分で相手と繋がる感覚であります。

普段会わない人でも、その感覚の中ではリラックスできる。

今回の集まりには、そんな人がますます増えているように予感する。

またきっと、ミラクルは起きてしまうのであります。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマの神殿!

苦痛の産物

久しぶりの投稿であります。

ひと月ほど前、研修で行った北海道で歩いていると、猛吹雪で前が見えない。

土地勘のないところではGoogle map頼りのワタクシでありますが、スマホの画面も全然見えない。

おぉ、やっと見えた、と思ったら逆方向に歩いていたことが判明。

やばい、遅れる、と思って反転した瞬間すべって転んだとき、自分でもびっくりした

「イテッッッ」

とでかい声。

なんですか今のは?

痛みに耐えるための気合かしら。

奇妙だけど、まぁいい、とにかく急がないと。

その後研修先で整体を受けるも、打撲の痛みで効果の判定できず。

あんた一体何しに来たの?的展開。

でも問題はその後であります。

右脇腹強打の影響か、左肩に痛み発生。

それが何をやっても改善しない。

整体師の「こけん」にかかわる事態であります。

でありますが、実はワタクシの左肩は難物。

以前東京のレジェンド先生のところに研修に通っていたときも、ついでに治療を受けていたのでありますが、2年以上全く改善せず。

その後いつのまにか改善した古傷なのであります。

まぁ良い機会だということで、徹底的に調べてみたところ、

左肩周辺の骨の

「骨髄」

に問題ありの反応。

アプローチしてみたところまずまずの感触。

そんなところは通常調べない。

でも、人間の体はどこでも問題が起きる。

それがめったに生じない問題の場合。

施術は難航する。

しまいには

「どこを調べればいいのか?」

というこまった局面に突入。

実のところ、わざわざ北海道まで行ったのも、ワタクシにとって

「体の未知のメカニズム」

を見つけ出している人がいる、との観測に基づいてのことであります。

何しろ、知らない種類の不調は見つけようがないのであります。

これについての結論はまだ先にならないと分からないのでありますが、久しぶりに整体を受けてみると、新しい発想がいくつも浮かんできて驚いているところであります。

自分だけで探求するのも悪くないですが、やっぱり新しい風は必要。

多くの人が「風」を待っている。

どこか知らないところに連れて行ってくれるのを待っている。

ワタクシも待っている。

行きたいところはかなり決まってきている。

待っている「もの」も決まっている。

待つのはヒジョーに苦手でありますが、待つしか手がないものも。

もしあなたが

「わたしには一切風が吹かない」

と思うのなら、

「もっと自分自身を見るべき」

だとワタクシが思うのは、やはり超感覚カウンセラーH氏の影響。

昔のことを振り返る。

ワタクシは、父親によく叱られていた。

「隆行ちょっと来い」

と言われるたび、

「また怒られるんだな」

と思っていた。

でも不思議なことに、何を怒られていたのかあまり覚えていない。

覚えているのは、例えば野球の練習の成果が試合で出なくて気持ちが落ちているときに、その気持ちの弱さを

「なさけない」

といわれた事など、気持ちの部分への叱責。

ワタクシの親は理不尽な要求も体罰もなく、自分の受けた「しつけ」は肯定的に考えているワタクシであります。

それでも、ワタクシの内面には親が植え付けたと思われる

「縛り」

はたくさん存在しているようであります。

指摘されてみれば、確かに否定できない力がワタクシを支配しているのであります。

それを知って目を向けた今、それは「風」を生む熱になる。

ワタクシも、ワタクシをとりまく状況も、変わらざるを得ない。

やっぱり状況は自分の内面の反映だと思われるのであります。

何かを指摘してくれる人がいないなら。

自分で自分を見るしかない。

自分の気持ちの動き出す深いところを。

何も考えずにやっているいつもの行動にも、内面の動きが大きく関わっていることが少なくない。

例えばうちの治療院に患者さんが入ってくるとき、いつもと同じような動きをみんながする。

いつも明るく入ってくる人、かならず顔を伏せている人、毎回遅れるひと。

たんなる習慣にみえて、内面の反映は大きいのであります。

内面の動きに気が付いたなら、「風」はきっとやってくる。

もちろん自分の内面を自分ですぐに癒す術はない。

ワタクシにも癒せない重大問題はあるのであります。

この世で一番嫌なのは、自分の顔を見ること。

20年前に右目を失明すると分かったあと、徐々に瞳が透明ではなくなってきたと知った時の気分は忘れられない。

正直言って、さっさと死んでしまいたかったのであります。

今でも自分の姿を見ると、自分自身への評価が一気に0になるのを感じる。

単純にワタクシは美しいものが好きなのであります。

自分の顔を愛せないのはこの上ない苦痛。

意識を深く持てるよう訓練しても、まだ肉体をとても重要に捉え続けているのであります。

でも考えてみれば、この出来事をきっかけに真剣に気功を始めたわけでありますし、10年以上に渡り大した上達がなくても気功を諦めなかった理由なのであります。

これもワタクシにやってきた「風」なんでしょう。

苦痛ほど強い風はない。

それは、運命?

ワタクシはですから、気功教室であまり練習しない人は、

「練習するための理由がないんだな」

と思っています。

考えてみればそれは、幸いなこと。

一方で、熱心に取り組める人にはそれだけの理由があるのかもしれず、もしそうなら大変なようでもあります。

でもきっとそれは、本当の意味で行くべきところに誘う風。

風をぜひ、前進の原動力にしてもらいたい。

あの時の強い風に、複雑な心境ながらもワタクシは少し、感謝します。

そしてまだまだ、風はやってきそう。

あなたにも、できれば苦痛のない風がくるよう願います。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマの神殿!

揺らぐ

今年ももう半月が過ぎてしまいました。

みなさんはどんなお正月だったでしょうか。

ワタクシの年越しは、いつもの通りでありました。

元旦に山に登ってお参りして、2日は4つの神社参り。

近年は「おふだ」を買う数も増加しておりまして、今年は3枚でした。

ほんの数年前までは、お守りとか破魔矢とかに何の興味もなかったワタクシでありますが、今では毎日のように神様・仏様の力を借りているので、買うのが当たり前のようになっているのであります。

昨年の年末には狛犬も購入。

用途は、防御壁。

いわゆる結界。

相手は患者さんからでてくる、なにかしら気持ちの悪い方々、エネルギーであります。

なかなか凛々しい犬でありまして重宝していたのでありますが、連日の使役にすでにお疲れのようであります。

ネット上で調べたところ、100体に1体くらいしかいない、超つわものお犬様を選んで買ったのでありましたが、すでに力尽きる寸前のよう。

たしかに半端ない負荷がかかっております。

もちろんワタクシにも、毎日「何か」がくっついてくるので、昼休みや寝る前などにクリーニングしているというわけなのであります。

その「くっつき度合」がましになるということで、お犬様に守ってもらってみた、ということなんでありますが、もはや作戦変更もやむなしの状況。

半月に1体のペースで犬を消耗し続けるわけにはいかないでしょう。

それにしても、「なにかしら気持ちの悪い方々」に真正面から戦いを挑むというのは、かなりのリスクをはらんでいるのを感じます。

先日も、夜に90分以上もかけてなお、クリーニングしきれない相手が登場。

マジやばい奴であります。

そういうのがいくつもワタクシにくっついてしまったら。

シンプルに言って、ジ・エンド。

ということで、もっと良い方策がないか、日夜研究中なのであります。

このお正月期間には、良い体験もありました。

ある人への遠隔治療を依頼されてやっていたのでありますが、残念ながらお亡くなりになった時のことであります。

途中からは先方からのエネルギー的な反応が弱くなりすぎていたので、させて頂ける対処がもうなにもないと思っていると、それでも先方とエネルギー的につながり続けるよう、「あっちの人」のご意見。

意図がわからないまま、そうしていたのであります。

ほんの少し、意識のどこかで、つなげておく。

そのあと依頼者から連絡があり、亡くなられたとのことで、故人に対して「お疲れ様でございました」とか思ってふと気が付くと、ワタクシに見慣れない神様が一体。

どうやら故人からやってきた神様のようであります。

そうするための「あっちの人」の意見だったのでありましょうか。

なんにしろ、有難い出来事であります。

さてそんなワタクシの毎日は、少し元気がなくなっています。

理由は「インナーチャイルド」。

超感覚カウンセラーH氏のケアにより、心の奥底から少し、浅いところに引っ張り出されてきた21歳ごろのワタクシであります。

インナーチャイルドとは、かつてのある場面、ある期間の自分自身が、意識の中で「思い出されないように」葬られてしまった状態のことであります。

ワタクシは2年間ほど、全身包帯でぐるぐる巻きで寝たきりのような生活を送っていました。

その頃のことは、とても苦痛が大きかったにもかかわらずリアルには思い出せず、そういう時もあったという大雑把な記憶だけが残っているようだったのであります。

それはまさに、蓋をされた記憶なのであります。

H氏がおっしゃるには、その状態でも普段の自分への大きな影響力をもっており、何かの形で良くない判断、反応を引き起こし続けているのだとか。

その記憶が、意識の浅いところに上がってきている。

でもまだ、生傷のようなままの状態。

その記憶が、ワタクシの

「ウキウキ感」

を奪っている。

毎日ただ治療所に歩いてくるだけでウキウキしていたワタクシが、全然楽しくない。

やる気も出ない。

なんだかしんどい。

大好きな人と話しても、気分が上がらない。

これは重傷であります。

もちろんこの古い記憶に織り込まれた、苦痛やいろいろな感情が適切にケアされれば、これまでよりもずっと楽な自分が待っている。

でも今は、楽しくならない。

現実の今の自分の生活に、なんら変化がないのに、であります。

ようやくワタクシは理解しました。

自分のことを理解したりうまくコントロールできていると思っていたのは、単なる思い込み。

特殊な技能者が一突きすれば、もろくも崩れ去るまぼろしであります。

H氏のセミナーで

「本当の幸せを想像してみてください」

といわれても、もはや何が本当かが分からない。

今までの楽しさに確信がない。

でもその上で。

やっぱり心理・潜在意識は面白い。

その領域のことを、心理学的にではなく、エネルギーの動きとして調べてみたいと思うのであります。

もちろんまず、自分のインナーチャイルドから。

本来の自分、それも今はよくわからない気分でありますが、とりあえずウキウキする感覚を取り戻したいと思います。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ「の」神殿。

霊的ダメージ

とうとう今年も残りわずかになってきました。

この記事が今年最後になりそうであります。

ワタクシにとっては、とてもたくさんの人と出会った一年だったように思われます。

そしてまた、過去のものになっていく人間関係も。

あなたが変われば、関わる人達も入れ替わっていく。

どこかで読んだような、聞いたことがあるような話であります。

確かにそうなんでしょう。

薄れていく関係に寂しさを感じつつ、加えて過去の自分のあり方に痛々しさを感じつつ、新たな展開に期待だけを込めるワタクシであります。

現時点のことに没頭していると、新しいことは勝手にやってくるようであります。

先日、ある患者さんに引っ付いている「おばけ」のようなものに対処しようとしていたところ、ワタクシの通常の手法では「取り除く」とか「解決する」ことができないとわかりました。

そこで何か、ほかのツールを加えれば解決可能なのかと「あっちの人」に聞くと、「YES」の反応でしたので、「ほかのツール」とは何かを調べたところ、天然石を入れている缶の底にあった

「ソマチッド」

だと分かりました。

もう10年くらい前に、電磁波対策に有効ということで買って治療機器に貼り付けていて、今は機器を使わないのと、もっと効果の高いグッズを作成したので用なしとなっていた代物であります。

ソマチッドは人体にも住んでいる「古代生物」だそうで、言ってみれば平和的に寄生しているのだそう。

面白いのは、人が死に近づくと、

「この宿はもう危険」

ということで逃げ出していって、どんどん体内にいる数が減っていくと言われていること。

そんな古代生物が「おばけ」駆除に効果がある。

その理由を調べてみると、「おばけ」がくっつきやすい人はみんな、体内のソマチッドの数が少なかったのであります。

一年以上の間、定期的にケアさせてもらっている患者さんでもソマチッドが少ないケースが結構ある。

つまり、何かの意味で、体が治っていない。

一年以上も、であります。

なんてことでありましょうか。

何かを分かっっているような顔して全然分かっていない。

ヒドイ施術者であります。

一体どこが治っていないのか。

かなり調べていて、やっと分かったこと。

ソマチッドが少ない人は

「霊的エネルギーが減っている」。

減っているから「おばけ」がくっつきやすい。

とても分かりやすい理屈であります。

肉体のエネルギーとか、心理的なエネルギーと同じように、

「霊的なエネルギー」も減ってしまうことがあると分かったのであります。

さて、減ってしまっている人にはどんな問題がおきているのか。

今の時点で分かっているのは3種類の問題。

1つは、おばけよりもっと「ヤバイ奴」がいること。

おばけは大した力がないので、少してこずったとしてもさほど苦労なく追い払える。

けれど「ヤバい奴」に対しては、特殊な図面や石、オイル、神様、真言など、かなり面倒。

おまけに患者さんから取ったあと、ワタクシに一旦くっつくので、正直言ってやりたくない操作。

こういう操作は、施術者がもし気が付かずに続けていると、どんどんくっつく数が増えて、おそらく病気になるかキチガイになる。

とにかく要注意。

もう1つは「念」。

生霊とも言われる、生きている人からの攻撃的思念。

そして、誰かに対して向けた強い思念が自分自身にも与えてしまっているダメージ。

リアルタイムで思念が働いている場合は解決法がないけど、昔のものなら解消できる。

これもいくつかのツールが必要だし、対処するとき一番気持ち悪い。

おまけにこれも、ワタクシに矛先が。

無関係なワタクシに、なぜ?

最後は、通常の霊的ダメージ。

内容は、心理面へのダメージのうち、言葉にできないような深い意識まで浸透してくるエネルギー的打撃。

これはこっちにくっついてこないから安心。

これら問題を一掃できれば、2つの効果が見込まれる。

まず、精神面のつらさ、不安や心配などを大きく減少させること。

もう一つは、その人の本来の力を発揮しやすくすること。

もちろんおばけも憑きにくくなる。

実のところ、ワタクシもかつてそんなケアを受けたことで、能力を伸ばせるようになった者なのであります。

でありますから、霊的領域へのケアにはすごく価値を感じます。

くっついてくるものは面倒ですが、頑張っていく思いであります。

こういうケアをやっていると、いわゆる

「霊的障害」

にもかなり詳しくなってきているのであります。

この障害で苦しんでいる人の霊的エネルギーは、ヒジョーに少なくなっている。

その理由は、霊的ではない領域にも、問題が生じていることのよう。

物事への認識が歪んでいたり、人として必要な「何か」を得られない境遇で生きてきていること、など。

今後はこの方面での仕事も増えていくと予測しているのでありますが、思った以上に手ごわい障害であります。

信頼できる霊的感覚者との連携が必須であります。

ということで、さんざん調べてきた肉体の「しくみ」に関してはおおむね解明できたようで、主な探求項目からは外れました。

来年初めには心理領域についての講義も待っていますし、今後は「心理・霊」に注目してくことになります。

まだまだ探求して楽しめる。

大変ありがたい施術者人生であります。

ということでみなさま、今年も大変にお世話になりました。

来年もきっと、「画期的発見」という言葉を何度もワタクシから聞かされる羽目になると思われますが、お嫌でないならご来院ください。

みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿、ワタクシがおかしな方向に進まないよう、お導きください。

今後もよろしくお願いいたします。

「理解」を超える

先日、ワタクシの同志とトラブりまして、あやうく大切な人間関係を失うところでございました。

いやー、あぶないあぶない。

ワタクシの特に何の意図もないやり取りが、相手の不愉快を生じさせて、その相手の言葉がワタクシの中にある「地雷」を炸裂させるという展開。

言ってみれば出遭いがしらの「事故」のようなものであります。

こんな風にして失う関係も世の中にはあるのかな、と想像させられました。

同志? そう、同志でありますよ。

その人との関係を表現する適切な語彙がなにか、書く時に調べてみたのであります。

友人とか知り合いとか・・、結構見つけ出すのに時間がかかりました。

なぜなら同志ってあんた。

あまり使わない言葉であります、共産国なら使うだろうけど。

調べてみると、他にも同志はいるようでありますが、ごく「少数」。

今後のワタクシの活動に無くてはならない存在ということのようであります。

「この人とはどんな関係?」かをピッタリした言葉を探すことで把握することができる。

例えば普通の患者さんなら

「患者さん」

になるけど、場合によっては

「友達」

となることもまれにある。

気功教室の参加者でも、普通なら

「生徒」

だけど、

「友」

となったりする。

友達と友は少し関係性が違うらしい。

対等の関係の場合は、相手側から見ても同じ言葉がピッタリになる。

ワタクシの

「代わりがいない人」

も、そうなってるはずなんだけど、現実には今のところなっていない。

なんでだろ?

さて今日は、余談の続きみたいな内容でありますが

「感覚が使えなくなった」話。

ワタクシが使っているような検査スキルは、例えば「あっちの人」にチャネリング的に聞いてみる場合でも、肉体面のエネルギー状態などによって使えない場合がままある。

例えば朝起きた瞬間には使えないことが多い。

疲れてくると、集中を高めないと間違えやすい。

あと、ワタクシと関係性の大きい相手がこっちに意識を向けだすと、急に使えなくなる。

これは結構、困る。

こういうのは、当然他の人にも起きている。

以前気功教室の参加者の足にエネルギーが通っていないということで、特殊なジェルでケアをして通うようにしてみた。

すると通っていない状態がその人にとっての「普通」になっていたので、丹田に気を集めるという基本的な気の操作ができなくなった。

スキルというのは、安定した状態を前提に形成される。

だから、エネルギーの流れるバランスが変わるだけで、いつもやっていることでも一時的にできなくなるようであります。

さてワタクシは、自分の体から新たに見つけ出した「問題」を、連休前の夜に調整しました。

その問題は、ワタクシの体全体への影響力を強く持っているらしかったので、しばらくの間「感覚」がつかえなくなるかもしれない、との観測から、調整できるタイミングを待っていたのであります。

調整後。

見事なくらい何も分からない。

検査も当然できない。

もし誰かに施術しろといわれても、たぶん普通のマッサージくらいしかできない。

マッサージする部位の選定も、たぶんうまくできない。

なんと一日以上感覚がストップ。

その状態で過ごしていると、ワタクシが日常にどれだけたくさんの事を調べているのかよくわかった。

道を歩いているときでさえ何かの検査をしているのであります。

例えば

「今日くるあの人の調子はどうかなー」

とか、

「今日の教室ではどんな話をするべきかなー」

とかを調べたりしている。

調べるべきことは、すごくたくさんある。

おそらく普通の人からみれば、狂人。

完全に異常。

でもそれがワタクシの日常。

その日常が、昔何もわからなかったワタクシの日常に逆戻りした。

なんか奇妙。

あ、そうだった、今は分からないんだった、の連続。

半日くらいして徐々に慣れてくると、その方が平和な気がする。

なんだか「するべき事」が何もなくなったような感じ。

そして、昔と決定的に違っている自分に気が付いたのであります。

それは

「ほとんど何も考えていない」

ということであります。

おそらく昔のワタクシなら、色々な事についてあれこれと考えていたように記憶している。

でも今は

「やるべきこと」

を抜きにすると、何もなくなってしまったかのよう。

自分がいて、単に時間が過ぎているような感じ。

なかなか、いい。

おそらく、「無」の意識状態の訓練がすすんだので、雑念が出てきにくくなっているのであります。

そんな時にふと思い浮かんだ人がいる。

その人の雰囲気は、これまでに会ったどんな人とも違うようだった。

ワタクシ的には「自由」を体現した人のように見える。

本当の「自由」の味を知っている人は、たぶん世の中にはほとんどいない。

もちろんそれは

「自分自身からの自由」

であります。

うまく言い表せないけど、すごく魅力的。

ワタクシもそうでありますが、多くの人は何かにがんじがらめになって生きている。

その人をみると、そうでないのがよくわかる。

今まで会った人の中にも、「内なる静寂」を感じる人が何人かいた。

一見して

「中性的」

みたいなのを感じる。

そんな生き方に少しはワタクシも近づいているかもしれない。

でもそれは「自由」からはまだ遠い。

それは普通の人より、感情や思考が減っているだけ、かもしれない。

「自由」な人からは、もっと違った雰囲気が伝わってくる。

それは、「楽しそう」。

そしてそのエネルギーは、単に座っている時にも全開になっているようだ。

楽しく話している時だけ、ではないのであります。

それは驚異的。

そこには、ワタクシが知らない「何か」がある。

でもなんとなく、意識のどこかで、それがワタクシにも分かりかけている。

それはまだふわふわした感じで、はっきりしない、言語化できない。

「自由」な人に聞いた。

「それを理解できていないのです」

すると

「それは理解するようなものではありません」

だって。

なんか素敵。

ワクワクする。

「それです、あなたの探しているものは」

と、人ではない「だれか」がささやいたような気がした。

ワタクシの今後の旅は、そっちに向かっていくようであります。

楽しい毎日に、感謝。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!

創造性

しばしば患者さんから聞く、困っていることの一つは

「夜に眠れないこと」

であります。

たしかに夜には眠った方が医学的にもいい。

でも、

「~して当たり前」

という思い込みで苦しんでいるだけ、という人もいるかもしれない。

別に夜に眠れなくてもいいでしょ、というのがワタクシの考え。

このブログも、だいたい夜の12時過ぎから書き始めることが普通。

昔ライターだったころに、なぜか夜のほうが記事をかけたので、その習慣の名残もあるかもしれない。

次の日が休みともなると、ワタクシは夜中にがぜん「ウキウキ」してくる。

まだまだ起きていても、次の日に支障がないんだ、のウキウキ感。

ブログ書くのも結構好き。

書く内容さえあれば。

そう、記事を書くには「書きたい」と思えるネタが必要。

ワタクシの場合は「感情の動き」なくして記事は成立しない。

もしなければ、どうでもいい記事ができあがってしまう。

それに、悪い感情の動きは記事にしないことにしている。

もうみんな、悪い方向の情報はお腹一杯だからであります。

でも、良い感情の動きは限られる。

感激することはなかなかない。

なかなかない感激はそれゆえに、記事にならざるをえない。

だから昨今タオイストジャパンネタが多い、ということなのであります。

そういえば、タオイストジャパンのワークショップ等に5回参加して、だんだん理解してきたことがある。

参加するたびに何かの意味で泣いているワタクシなのでありますが、泣くと何かがゆるむ、もしくは自然な状態になる。

でも、時間がたつとまた元に戻ろうとする。

で、またゆるめる。

これを繰り返していると、もう前みたいには元に戻ってなにかが硬くなることがなくなってきている。

そう、長年の習慣は、体のものでも精神のものでもすぐにはリセットできないのであります。

本来の状態を「これがあたりまえ」と認識できるようになるまでに反復が必要。

でも効率よくそれを成し遂げる。

そういう意味合いを持つのがそこのセミナーであります。

と、余談がいつのまにか本題に?

話が元にもどりますが、会社勤めの人には夜更かしはおススメできないけど、年配の人なんかで昼寝もできる場合は、夜寝ることにこだわらなくてもよし、という話。

夜はやることがないんです、はまた別の問題。

さて、前回の投稿で予告した内容。

まず「OSHOカード」

伏せてあるカードを一枚引いて、そのカードの意味するところを教えてもらう。

ワタクシの場合

「CREATIVITY]

つまり創造性。

以前にある能力者に他の方法で見てもらったときにも創造性だった。

自分でいうのもなんだけど、創造性は旺盛と思われる。

ただあっちの人の言うとおりにしてるだけ、との意見もあるけど。

だけれども先生は、この言葉の背後にある

「破壊性」

について語られた。

ワタクシに対してだから、その一面を語られたのだと感じる。

確かにそうであります。

ワタクシは例えば旧態依然としたものは大嫌いなのであります。

「今までそうやってきたから」

あるいは

「みんながそうするから・・・」

もうそれは、最悪。

あぁ、こんなところでも前回書いた人間の酷さがでている、と感じる。

深いところから湧いてくる凶暴性。

そしてそれは、自分へのネガティブな認識からやってきている。

まだ攻略はできてはいないようであります。

さて

https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/what-is-creativity

このサイトにあるOSHOの言葉は、また違った角度から[CREATIVITY]について語っている。

抜粋させてもらうと

「創造性を特定のものに限定してはいけない。創造的なのは人間であって、ある人が創造的なら、彼がなにをしようと、ただ歩いているだけでも、彼の歩みのなかに創造性を見ることができる。彼が静かに坐って、なにもしていなくても、そのなにもしないことが創造的な行為になる。菩提樹の下でなにもせずに坐っている仏陀は、世界がかつて知ったもっとも偉大な創造者だった。

 それさえ理解すれば、創造的だったり非創造的だったりするのはあなた、人間だということを理解すれば、この問題は解決する。

 だれでも画家になれるわけではないし、その必要はない。だれもが画家になったら、世界はとても醜いものになる。生きていくのが難しくなる。そしてだれでもダンサーになれるわけではないし、その必要はない。しかし、だれでも創造的になることができる。

 なにをするにしても、それを歓びに満ちてするなら、それを愛情深くするなら、その行為が純然たる経済活動でないなら、それは創造的だ。自分のなかにそれから成長したものをもっているなら、それが自分に成長をもたらしたなら、それはスピリチュアルなもの、創造的なもの、神聖なものだ。

 あなたは創造的になればなるほど神のようなる。世界中のすべての宗教が、神は創造主だと言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っているのは、創造的になればなるほど、あなたは神々しくなるということだ。あなたの創造性がクライマックスに達すると、あなたの全生命が創造的になると、あなたは神々しさのなかに生きている。だから神は創造主にちがいない。というのも、創造的に生きてきた人たちは神にきわめて近くなるからだ。」

どうですか、きちゃったでしょ? ズン、みたいなの。

このような言葉の後、もはや書くに足る言葉は皆無。

ということで、今回の記事はこれでおしまいにしてしまうのであります。

今後もたのみますぞ、みくまりの神様、不動明王様、ゴータマ殿!