No1ネガティブ

今回は予告どおり、今月行った瞑想のセミナーについての投稿。

前回の記事の最後あたりに書いた

「新しい展開」

というのも実は、このセミナーでの副産物。

一つの体験が波となって、「わたし」という存在の全領域に変化を引き起こしたようであります。

このセミナーの特性は

「OSHO」

という指導者の教えに従った内容、ということになるのかもしれない。

でもワタクシは、そこには今のところ興味がなくて、純粋に瞑想とそれに関するワークに取り組んできたということであります。

ただ、参加者の何割かを占めていた、「サニヤシン」と称するOSHO氏の考えに賛同する人たちが興味深いというのも否定できないところ。

そしてタオイストジャパンと今後も関わる中で、知らないうちにOSHO氏の思想がワタクシの中にも根付いていくかもしれない。

ワタクシは会ったこともない「ラマナ・マハルシ」の教えによって、ここまで進んできた者であります。

会ってはいなくても、それは「縁」というものなのかもしれない。

マハルシ氏の、あまりにも明確な教えと比較すると、OSHO氏の教えは核心を理解するのに少し時間がかかりそうな印象。

両者の教えの核心に違いがあるのかどうか。

それについては、今後書くこともあるかもしれない。

さて今回のセミナーでとても深い体験ができたワークは

「2人一組になって、自分自身へのネガティブな認識・評価をすべて相手に話す」

というものであります。

考えてみれば、自分に対して持っているネガティブな思いを誰かが打ち明けて聞かせてくれたことはあまりない。

なぜってそれは、少し考えればわかる。

誰だって、自分の一番痛い所の話はしたくないのであります。

でもあえて、それをやる。

最初にワタクシが話すことに。

ワタクシのネガティブでまず最初に思い浮かんだのは

「外見が受け入れられない」

であります。

25年以上今のような外見で生きているワタクシでありますが、未だに慣れることがない。

というか、受け入れ不可能。

そこには説明は不要であります。

次にでてきたのは

「やさしくない」

であります。

おそらくワタクシよりもっと優しくない人間は少なくないと客観的には思う。

でも、自分自身への評価は誰かとの相対評価じゃない。

自分の発する言葉の中に、「やさしさが足りない」を感じることが結構あるのであります。

「やさしさ」は人にとって、一番大切な要素だとワタクシは考える。

でもそこが足りていないのであります。

変えようと思っても、なかかな変えられないのが人間でありますね。

その次は

「賢くない」

ワタクシは賢さにヒジョーに興味をもつ人間であります。

そういう意味で、しょうもない奴であります。

昔自分が賢いと思っていたのに、絶対に負けないと思っていた学友にも受験で負けたのであります。

そのショックは未だに続いているようであります。

ホンマにしょうもない。

ということで、他にもいろいろとネガティブな評価はでてきたのであります。

しかしワタクシの場合、思ったよりはネガティブは出てきませんでした。

ワタクシの頭は、普段あまりネガティブな方向には意識が行かない性質なのであります。

そして、相手の番になりました。

ワタクシは自分のことを話し終えたので、やれやれの気分でした。

でも。

相手の人が話を進めるうち、その内容に

「なんて可哀そうなんだろう」

と心底思いました。

そしてその内容から考えて、その人のネガティブはワタクシのような性質の人間が作り出しているとしか思えませんでした。

そう思うと、涙が止まらなくなりました。

このワークは知らない人同士でやるのが前提のようですが、ワタクシの相手の人は以前にも会ったことがある人でした。

その人が、自分のことをそんな風にネガティブに考えているとは思いもよりませんでした。

目の前の人が心の中に傷を負って生きている。

それを本当にリアルに感じたのは初めての経験だったような気がします。

他の人からの攻撃よりも、自分自身への攻撃が一番抗いがたいものなのであります。

このワークの後、張りつめていた自分の中の何かが、消え去ったように感じます。

お互いが、相手に弱みを見せずに、平気そうな顔をして生きる世界。

それが今の日本のような気がしてきました。

なんてしょうもなくて、表面的で、おろかな社会なんでありましょう。

そしてその社会の、確固たる構成員のワタクシ。

いえむしろ。

ワタクシこそがバリバリの構成員なのであります。

でも、それは幻の世界だとはっきり認識しました。

それがとてつもないインパクトでもって「解った」ことであります。

このワークで、すぐに感じ取ったのはそんな印象でした。

そのあとワタクシは、新幹線の中で考え始めていました。

自分が挙げたネガティブのうち、一番強いネガティブはどれだったのか、について。

そんなのは、実際には考えてわかるようなものではないので、

「あっちの人」

に聞いてみたのであります。

すると、挙げた中には一番がないことが分かりました。

じゃあ何が一番なのか。

ネガティブな自分への評価や決めつけは、何かの拍子に

「ネガティブな感情」

を呼び起こす、と考えられる。

そこで、自分が強い「不快感」を感じる場面から探っていくことにする。

ワタクシは、予約をころころ変える患者さんは嫌い。

何度も予約を変更されると、すごく憂鬱になる。

それがなぜか、自分でも分かっていなかったのであります。

普通の人なら特に問題視するような状況じゃない。

でも自分にとっては問題になる。

何かが、悪い気分を呼び起こしている。

この答えにたどり着くまでには、1時間以上かかったような気がする。

「あっちの人」に聞きながらの1時間だから、かなりいろいろな事を調べてやっと導き出したこと。

それは

「自分は必要とされていない」

だったのであります。

この潜在的なネガティブがあるから、そこにひっかかる事象は耐え難い。

これがワタクシのNo1ネガティブでありました。

ころころ予約を変える=軽く扱われる=必要とされていない

の図式。

ここにたどり着いたとき、なんだかもう、胸の真ん中を杭で貫かれたような

「そう、かぁ。。」

としばらく身動きできない感覚。

そういえば、その思いが刻み込まれた事件があった。

「自分は重要な役割を担っている」

と思っていた中学の部活動での出来事。

自分の行動のせいで、部が崩壊しかけたのであります。

その時にNo1ネガティブはしっかりと、刻み込まれてしまったようであります。

さらには、高校の部活でもこのネガティブを強化してしまう状況があったような。。

このNo1が自分にとっていかに大きな影響を与えてきたのかは、試しに

「No1ポジティブ」

を調べてみたときにはっきりしました。

それは

「自分のスキルは必要とされている」

だったのであります。

自分という存在が必要とされていないなら、スキルで必要とされるしかない

という思いの中で、これまでスキルを磨いてきたということであります。

自分のことながら、正直言ってすごく滑稽です。

そんな目的のために取り組んできたのが自分の人生なのか。

そしてそれだけじゃない。

スキルを重んじることはつまり、能力主義ということなんであります。

能力のない奴は価値なし、であります。

その認識がやさしさの欠如にもつながっている。

それがワタクシという人間でありました。

考えれば考えるほど、無駄なことに時間を費やしてきたように思える。

でも、悪いことばかりでもない、と思い直す。

このネガティブのおかげで、本来ならできない努力もしてこれたかもしれない。

No1ネガティブへの理解は、生き方を変える力を持っているように思う。

たぶんワタクシの生き方は、変わっていくのでありましょう。

それで、気功教室のみんなにも、No1ネガティブを探してもらった。

ワタクシの便利な検査で、言葉にしなくても、心の中に思い描いている事柄がどのくらいのネガティブなのか分かるのであります。

やはり、No1ネガティブが自分で分かっている人は少ないようであります。

どんな人にとっても、No1ネガティブを探すことには大きな価値があるでしょう。

ネガティブの正体が分かればそれだけで、その影響力はすごい速さで小さくなってしまうようであります。

教室では、お互いに自分のネガティブを言い合うワークはしませんでした。

「自分を変えたい」という思いが強くなっている人が取り組めるワーク。

他人に自分のネガティブは明かしたくない、という人には向かないでしょう。

でもネガティブは幻のようなものです。

誰かに言ってしまったら楽になります。

そんな機会がみなさんに訪れるよう願っています。

セミナーでは、もちろん瞑想もやりました。

でも特別なものではありませんでした。

あと、「OSHOカード」というものを1人1枚選んで、その意味を先生に聞きました。

そのあたりのことや、記事の出だしで書いた

「新しい展開」

については、次回にでも。

気が変わらなければ。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!

形がないものを相手に

とうとう夏が終わりかけてきたような今日このごろ。

確認してみると、なんと1か月も記事を投稿していませんでした。

もちろん最近も色々なことが起きてきています。

ただその内容がなんとなく記事にしにくいし、多くの人にとっておそらく「つまんない」。

加えてあまりにも妄想的。

その理由。

それは、目に見えないもの、あるのかないのか分からないものに対して、「ある」という事を前提に、調べて評価する作業だからであります。

例えば肉体が元気かどうかを調べようとする場合。

ワタクシの場合ならとりあえず、頭の中の水(髄液)が上手く流れているのかどうかを観てみる。

なかなか役に立つ検査でありますし、実際に存在して流れているものだから、そこに疑問は生じにくい。

「本当に分かっているのか?」

くらいの常識的な不安はあるとしても、感覚がかなり明確なので「良し」とする。

だけれども、通常の手法で歯が立たない患者さんを「どうにかして」改善したいという状況になると、これまでに調べたことのないような、新たな「判断材料」を探し始める。

するととたんに「いたしかたなし」な検査対象と評価、一歩間違えれば「妄想」となる。

それでも

ワタクシの頭の中で。

そして、霊的な領域へのアプローチの中で。

妄想は症状の改善という形で

「ただの妄想ではない」

と主張するのであります。

その概要。

ある人の全部の領域を含んだエネルギーの球を想像する。

それは生命をイメージ化したもの。

通常はエネルギーそのものなので、その量を数値化できる。

これまでも「生命力」というのを数値化して利用してきたのでありますが、これまでよりも、「肉体のエネルギー以外のエネルギー」に重きを置いている。

そしてそのエネルギーが肉体内に湧き出す泉。

この泉に不調がなければ、エネルギーの量に見合った度合いで
体内にエネルギーが湧き出している。

エネルギーの量を数値化できて、泉からも適切な湧き出しがあるなら、言ってみれば簡単な症状であります。

適切に肉体面への整体を施せばスムーズに回復。

交通事故での深刻なダメージなどでも意外に順調に改善できるようであります。

でもエネルギーが数値化できない場合。

精神面あるいは霊的領域へのアプローチなしでは解決にはまず至らない。

その場で症状が軽くなるなどの効果が出ても、本質的な改善は得られないのであります。

もちろん精神面あるいは霊的領域にどの程度のトラブルが起きているかによって体の反応はかなり違ってくる。

深刻な場合、日常生活に大きな支障が出ているか、ほとんど活動できない状態になってしまうようでありまして、そのような状態に苦しむ人はすごくたくさんおられるようであります。

とても驚いたのは、うちの患者さんでスムーズに解決していかないほとんど全員がエネルギーの全体量を数値化できなかったこと。

そしてその半数が、霊的な存在の介入によって回復を邪魔されているということであります。

そんなにも霊的な問題がありふれていたとは信じがたい。

でもそれが正しいようであります。

人が霊的な問題で不調になることは、当然あると思っていました。

同時に、霊的に問題をとらえる人は常に霊的に考える、とも思っている。

だから実際にはそんなケースはとても少ないのでは、と。

この話はもちろん、症状を相手に仕事をしているあらゆるタイプの施術者、セラピスト、医療人にも当てはまる。

例えば骨盤の歪みを診て判断する人は常に歪みとか骨格しかみていない。

全部の症状は骨格に原因がある、という。

鍼灸師は臓器やエネルギーの問題という。

リンパマッサージの人はリンパの停滞という。

筋肉へのアプローチの人は筋肉が硬いからという。

でもどれも、言っていることが正しい場合はありますね。

その割合はたぶん、低いけど。

それと比較すると、ある程度の難しい症状を抱えた患者さんの場合において、霊的な問題が原因という割合はずっと高い、かもしれない。

じゃあ霊能者にみてもらえばとは、特定の能力者をのぞくとワタクシはあまり思わない。

なぜなら。

霊的な問題がほとんどの場合、精神面の問題と関わっていると感じるからであります。

でありますから、精神面と霊的な問題の両方を解決していく必要あり。

もちろん「言うは易し」。

でもうまくできれば、エネルギーが数値化できるようになる。

たいていの場合、元気な人よりかなり低い数値。

数値が上がるまでに、しばらくの期間がかかりそう。

でも回復していく準備は完了。

あと、泉。

これがまた不思議な機能。

肉体面への湧き出し口だから、当然骨格や中枢神経の状態にも左右される。

でも一度完全に閉じると、いくら肉体面をケアしても働き出さない。

言ってみれば、エネルギーでできている「吹き出し口」を直接エネルギー的に
ケアしないと元に戻らない。

この泉の場所は5箇所だけど、エネルギーにはかなり敏感なワタクシでも、きっちりした位置を探し出すのには少し苦労する。

でもって、意識をかなり深くまで沈めて、ワタクシの扱える上限に近い繊細なエネルギーでケアすれば完了。

ようやくそこから、肉体面へのアプローチ。

上記の操作をした患者さんの場合、肉体面へのケアはさほどでてこない。

それはおそらく、上記操作で十分にインパクトがあるので、患者さんの体がそれ以上を要求してこないからであります。

と、ここまでが

「妄想」

のような話。

でも記事投稿後数日で、違う展開が16日に起きた。

だから書き換えている。

確かに霊的領域へのアプローチは効果がある。

でも、他の手法でもその領域に働きかけることができる、かも。

もしそうなら、神様仏様の出番は激減してしまうかも。

おぉ、急に元気がでてきた。

意味不明より、意味明確のほうがやっぱりワタクシはよいのであります。

さて次回は、先日行った瞑想のセミナーで得たものについて
書こうかなと思います。

記憶が新しいうちに書くつもり。

ということで、今後も頼みますぞ、みくまりの神様、不動明王様、名前のない神殿!